動物との関係が見直される時代に、肉食系の私たちが理解を迫られること

普段食べている「肉」は、かつて生きとし生けるものでした。

同時に、全ての生きとし生けるものは、「肉」でもあります。愛しいペットも、薄汚いドブネズミも、あなたも私も、何もかもがそうです。

では、その境界線は一体どこにあるのでしょうか?

生命と肉の境界線を探せ!初級編

以下の写真をご覧ください。

美味しそうなビーフステーキです。

私は肉が大好物です!子どもの頃は「ごはんを食べる」=「肉を食べること」だと思っていたくらいです。

子牛です。カワイイ!

っておい!そこで読むのをやめないで!

安心してください。ちゃんとクッションを挟みます。そういう写真を出す時は。

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私は動物が大好きなので、牛がとても可愛らしく見えます。

もう超可愛い。食べちゃいたい。

さて、2つの写真には同じものが写っています。牛の写真には、間違いなく牛の肉も映っているから。ここで一度思い出しましょう。ステーキを食べるためには、かわいいかわいい牛ちゃんを・・・・・・・・・・

絞めなくてはいけないことを。

 

つまり一枚目の写真は、すでに絞めた後の牛の姿です。

「食べてしまいたいほど可愛い」って何気なく言ったけど、文字通り食べていた、と考えだすと・・・ああ気持ち悪い。受け入れたくない。

と私は感じます。もし、あなたもそうだとしたら、ある大切な理解が欠けているのが原因です。

牛と牛肉の関係性なんて誰だって知ってます。なのにどうしてバツが悪いのか?

もちろん牛はまだ生きていますし、見た目が全然違うのだから、印象が異なるのは当然です。しかし本当の意味でその経過を理解した上で、

「いただきます!」

と普段ステーキを食べている人はごく少数。これは極めて不自然です。

こんなことはとっくに考えつくしたわ!という方なら、この記事を読んでも時間の無駄です。でも、きっとそんな人間はごく少数でしょう。

多くの人が毎日のように肉を食べ、ペットとして動物を愛でているにもかかわらず。

生命と肉の境界線を探せ!中級編

では次の写真です。

ステーキの例はわかりやすかったと思います。これはどうでしょう。

実は、これらの写真にも牛が隠れています。

コーヒーのミルクは言わずもがな。

街を歩く人の靴やベルト、和太鼓には牛革が用いられています。

石鹸やハンドソープの類は、牛の脂肪を原料としているものがあります。

脂肪から精製されたグリセリンは、綺麗なシャボン玉を割れにくくするために利用されているとか。

こんな例は他にいくらでもあります。知らないだけで。

答え合わせ

このように牛が原料の一部であって、加工されてしまえば牛の面影はありません。私たちはその過程を知らなかったり、全く興味が無かったりします。

前述の写真にはどれも絞めた牛が映っているのなら、なぜ見た時の印象がコロコロ変わるのでしょうか。全部もともとは同じ牛なのに。

一体どこまでが牛で、どこからが肉で、どうなれば他の何かなのでしょうか。

私たちはそれをどうやって区別して、印象を受け取っているのでしょうか。

答えは見た目です。 

生きている牛やステーキ、革のブランドバッグは見慣れているけど、その中間にある過程は全く知らない。つーか知りたくねぇ。見なくねぇ。

それでも現代社会を生きるならば、そのモヤモヤに答えを出すしかありません。

切っても切れない程、肉は生活に根付いているためです。

朝起きたら洗顔料で顔を洗い、朝食にソーセージを食べ、革靴をはいて会社や学校へ出掛け、休憩中にコーヒーをミルクで飲み、夏にはお祭りの和太鼓の音に風情を感じ、家では子どもとシャボン玉で遊んでいるからです。

肉から逃れる術はない

何よりも、私たちの身体も「肉そのもの」です。牛と何一つ変わりません。

生きとし生けるものは、全て「肉」です。

肉からは決して逃れられません。(笑) 

どうやら生命にはたくさんの横顔があるようです。その辺を少し考えてみることにしませんか?

「知りたくねぇ。見なくねぇ。」のまま課題を先送りするよりも、直視して理解してしまったほうが楽ではないでしょうか?

少なくとも私は、その道を選んだほうが楽しいと断言できます。

犬の肉球だと思って

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写真提供:フリー写真素材ぱくたそ 様

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