人生変えたきゃゴキブリを食べよう!食のタブーを超えた先の安堵感

食文化について
この記事は約5分で読めます。

いわゆる食のタブーの本質とはなんでしょうか?

犬やクジラは食べちゃダメ、でも牛や豚はOKとか。

 

それって単なる思い込みでは?

以前ゴキブリの唐揚げを食べる機会がありました。その経験をもとに、

「食のタブーは単なる思い込み説」を提唱していきます。

 

 

ゴキブリの唐揚げをオーダーした

調理され皿に盛りつけられた彼らは、たまに家で遭遇するのとほぼ同じルックスでした。

写真を載せます。嫌いな人は見ないでね。)

 

 

 

 

 

 

本当によろしいですね?

 

 

 

 

 

 

G唐1人前です。

 

食べるとたまに脚が歯に挟まります。

 

店員さんはこう言いました。

(*^_^*) 「清潔に育てられた食用ゴキブリです。衛生面の心配はありませんよ。」

(;^ω^)  「あっ、はい。」 (何の慰めにもならねえ)

 

勇気を振り絞ってGを噛みしめると、土臭く独特な味でした。ザ・虫って感じ。

そしてゴクッと飲み干した次の瞬間、私に天啓が訪れました。

 

 

ゴキブリを食べて得た確信

 

「なんてこった!やっぱり食べられる!別にゴキブリを食べても構わないんだ!」

 

トライした甲斐がありました。

食べる前から想定していた結論であっても、実際に味わうまでは腑に落ちませんでしたから。

 

世界の食文化を振り返ると、ヒトという種はなんだって食べてきた歴史があります。

一般的な日本人なら、牛、豚、ニワトリ、魚介類は当然として、羊、鹿、鴨、馬なんかも食べる機会があります。

世界を見渡せば、うさぎ、クジラ、熊、イノシシ、亀、ワニ、カエル、カタツムリ、犬、猫、蛇、カンガルー、コウモリ、猿、ラクダ、トナカイ、アザラシなどなど盛りだくさん。

ここにゴキブリが加わったからといって、なんだというのでしょうか?

 

極端な話ヒトだって食べてきた事例が、古今東西あるわけですしね。

「羊たちの沈黙」のレクター博士よろしく意図的にやった事例もあれば、難破した船で食料が付き、究極の選択とした食べたケースもあります。

狩りの対象として、純粋に人間を食べる文化すらありました。

 

食のタブーとは、そこにどれがOKでどれがNGかを定めることです。

そのルールが明確で万人が納得できれば話は簡単なんですが、そうじゃないから揉めているわけで。やっぱ食のタブーって思い込みに過ぎないのでは?

 

食の正義は幼児のような感情論

原則として、食に善悪などありません。法的なアレコレは一度脇に置いて考えを進めます。

 

例えば日本人は犬を食べるなんてありえない!と言うけど、普通に家畜にしている国もあるせいで、文化摩擦が生まれてきたのは周知のとおりです。

猫を絞めるのは無理だけど、猫の皮が貼られた三味線の音色に抵抗を持つ方は少ないですね。これは単に知らないだけか。

みんなが大好きな牛肉だって、文化圏次第では食べたら重罪となります。さらに牛肉を食べ牛側の財布やベルトを愛用しているくせに、牛を絞める場面を直視できない日本人たち。

魚の捌き方は料理の基本なのに、ニワトリを絞める手順をブログにアップすると残酷だと炎上します。但し唐揚げの作り方なら炎上しない。既に肉になっていれば。

イルカは知的な生物だから食用にするな!保護しようって運動がある一方で、人間同士のあらゆる差別はいまだ根強く残っています。

屠畜を仕事にする人への差別が根強いにも関わらず、差別をする当人たちは肉を食べるだけで、ニワトリ一羽絞めることもできません。

 

つまり消費するのは好きだけど、汚いところは見たくない!

キモチは痛いほどわかります。でもこのままってわけにはねそれは正義とは程遠い態度です。

 

とにかく善悪を明確に解き明かすのはムリです。そんなものないんだから。

ならば食のタブーの本質は、集団的な思い込みではないでしょうか?

 

原因は見た目です。見た目の違いから生まれる錯覚です。

どうやって肉ができるのかを見たことがない。実際にやったことがない。この経験の欠落が様々な誤解の根本原因です。

 

食にタブーで悩むのはヒトだけ

あと人間以外の生き物に食のタブーはありません。

栄養が摂取できて食べられるものはなんでも食べます。どんな肉でも山で野ざらしにすれば、他の生き物が食べて掃除してくれます。肉が薬品とかで汚染されてりゃ別だけど。

 

人間だけがモラルを設けました。秩序を保つために。よりよく生きるために。

それは素晴らしい文化と言えますが、逆に形骸化したモラルに縛られる時代が訪れました。

 

様々な動物をペットとして飼うようになり、動物愛護の考えも浸透してペットの葬儀を行うことも増えました。

しかし自分のペットの冥福は祈るけれど、彼らに与えたペットフードの原料である肉が、いったいどこから来たか?興味すらありません。

特定の命をひいきにするのは仕方がないけれど、肉と命のつながりを忘れてしまっています。これは、死という不愉快な現象を隠しまくった副作用でしょう。

(これらを解決する手段としておススメなのは、自分自身で肉を生産することです。つまり動物を育てて絞める経験です。別記事に書きます。)

 

肉と命は循環しながらつながっているのなら、そこに境目はあるのだろうか・・・?

そんなことを考えて今日もお肉を食べる、肉の塊である私たちです。

 

食のタブーはフィクションや洗脳の類である

ところで、羊たちの沈黙のレクター博士って、ちょっとカッコいいですよね?

猟奇殺人者でヒトを食べちゃうのに、不思議な魅力がありますよね?

現実に遭遇したら超ヤバイ人物も、フィクションの世界では魅力的に見えます。同じように、食肉への印象がコロコロ変わるのは、それがいわばフィクションの産物だからです。現実を何もわかっていないからです。

 

となると、美学を持ってヒトを食べるレクターよりも、何も考えずに肉を食べることが普通で、それを指摘すると煙たがる現代人のほうが猟奇的なような・・。

 

 

 

子羊たちは泣き止んだかい?

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コメント

  1. 栗原秀夫 より:

    なかなか良い事を書いてくれました。私も人間ってなんて身勝手な生き物だと思ってきました。私の長い海外在住経験からいって、日本人の特性は食文化にとどまらず多くの分野で不思議に思う事がよくあります。それと同じように他の国でもそれぞれ変な事があるのでお互い様ですね。でも、そういった物を再追求したこの文面はすばらしいと思いました。

    • 管理人 より:

      ありがとうございます。
      このテーマに関しては日本以外の国でも似たりよったりな状況と聞きます。相互理解が進めば面白そうなのですが、、。

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