予想の斜め上をいく「いただきます」の真の意味。実は誰にも理解不能

人間の認識について
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「いただきます」というありふれた言葉は、実は真の意味を誰にも理解できません。

 

通説として知られる「食材、料理人、神仏などへの感謝」というのは、ざっくり言えばそれでも正解なのでしょうが、明らかに的を外しています。

もっと深淵な意味が隠されているからです。そいつを説明していきます。

 

 

がしかし、結論から言えば理解不能です。

人間の理解力を超える話だからです。

それでいてなお、清々しい結論が導けます。

 

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「いただきます」の語源

 

古くからあるようなイメージですが、語源はよくわかっていません。

 

通説としては、神仏や目上の人から物をもらう時に、頭の上(頂)にかかげながら受け取っていた風習から「いただく」という言葉が生まれ、次第に「食べる」「もらう」の謙譲語になった、というものです。

 

その後、紆余曲折を経て、食事前の挨拶として定着したとされています。

誰かに対する感謝の言葉であれば、私たちの肌感覚と一致する説ですね。

 

昭和初期に国が創作した可能性が高い

一般市民へ定着した時期は、昭和初期という説が有力です。

明治以前の資料には、「いただきます」が一般人に浸透していた様子は全く描かれていないためです。

 

濃厚な説としては「昭和初期の集団疎開が流行った際に、国家主導で普及させられた文化」というものです。

これは疎開先にお寺が多かったことから、教育の一環としてそうした指示が全国に出されたと考えられています。キリスト教や仏教によく似た文化が古くからあることから、これを参考に作られたとも言われています。

 

ここで、他の文化圏の食前の祈りを見ていきましょう。

参考① キリスト教の主の祈り(Lord's Prayer)
天にまします我らの父よ
~中略~
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ
~中略~
アーメン

 

これは最もメジャーな祈りとして、キリスト教圏の映画などによく出てきます。

他にも食前のお祈りには多くのバリエーションがあります。祈りの対象は神さまです。

 

起源については詳しくないのですが、長い歴史を持つ(であろう)祈りと思われます。

 

参考② 仏教の五観の偈(ごかんのげ)
計功多少 量彼来処

この食事がどうしてできたかを考え、食事が出来上がるまでの多くの人々の働きに感謝します)

(一部抜粋)

これは仏教のお寺で修行するお坊さんが、食前に唱えるお祈り(のようなもの)です。

昔の僧侶である道元(ドウゲン:AD1200~1253)によって中国から日本にもたらされました。

祈りの対象は人々です。

 

現在でもこれを運用しているお寺は多く、宗教を問わない普遍性があるためか、飲食店や食品企業などで度々活用されています。

長い歴史を持つ文化であり、今日の「いただきます」とほぼ同じニュアンスではありますが、直接的なつながりはないとされています。

 

「いただきます」の解釈にある根本的な欠陥

 

「いただきます」には多くの解釈があって、どれが正解という話ではありません。

 

・食材である肉や野菜の命へ感謝しよう!

食事を作ってくれた人、食材を生産してくれた人へ感謝しよう!

・全ての源である神仏へ感謝しよう!

 

どれであってもOKです。

しかし、「肉や野菜の命」や「人間」や「神仏」とはなんなのか、正確に定義できる人が存在するのでしょうか?

 

 

・人間とは何者か?

・神仏とはどんな存在化?

・そもそも私たちに自由意志はあるのか?

 

その前提すらよく知らないけど、なんとなく「いただきます」と言い続けてきたのではないでしょうか?

つまり誰に何をどう感謝すればいいか、まるっきりわからない。

 

 

「神父さんやお坊さんとか、科学者なら知っているのでは?」

いいえ。残念ながら彼らにもわかりません。

 

この世界において、どこまでが人間による働きで、どこまでが神仏による働きなのか?そして生命とはなんなのか?

未解決の課題です。そこがキモなのに、誰にもわかりません。

 

 

「じゃあ、いただきますという言葉は、誰が誰に対して言っているの?」

と難しい問題が提起されてしまいました。

 

 

一つの打開策

 

答えは誰にもわからないけれど、実は肉薄する仮説ならあります。

「それらは全て一つのものである」とする考え方です。

 

つまり肉や野菜の命と神仏の命は一つの現象であり、別々の存在ではありません。

もちろん私たち人間もその一部です。

 

 

人間が多くの細胞なら成り立っており、どの細胞が私だとは特定できないように、世界も多くの生命や働きで成り立っています。

これはヒト、これは植物、これは自然現象と、明確な境界線を引けません。世界は絶えず変化しており、本質と呼べるものがありません。

 

自然や宇宙が神仏の一部であるように、私たちは世界の一部です。

それらを分断して扱うことは不可能です。

 

 

 

つまり、これらは全て同じ意味です。

・食材である肉や野菜の命へ感謝しよう!

食事を作ってくれた人、食材を生産してくれた人へ感謝しよう!

・全ての源である神仏へ感謝しよう!

 

そして、その意味を理解することは不可能となりました。

「理解する対象と理解される対象は、全く同じ存在だ」と言っているのですから、論理的には破綻してしまいます。説明できません。

神父さんやお坊さんにも理解できない、というのはそういう意味です。

 

がしかし、「いただきます」にはその壁を超えるパワーがあります。

 

逆に「いただかれる」と見えてくるもの

皆さんは寄生虫に胃を喰い破られたことはありますか?

食中毒でお腹を壊したことはありますか?

蚊に喰われた経験ならあるのではないでしょうか?

クマやトラに誰かが食べられた、というニュースを時々耳にしませんか?

 

忘れがちですが、時に私たちは「いただかれる」側になります。

 

著名な哲学者であるニーチェは言いました。

怪物(食べ物)と戦う者は、その過程で自分自身も怪物(食べ物)になることのないように気をつけなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。

 

著名な僧侶である親鸞(しんらん)も言いました。

「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に食べさせよ」
「生前に多くの生命を奪い、その肉を食べてきた。中でも多く食べてきたのは魚である。いかに生きるためとはいいながら、まことに済まんことであった。せめて死後なりとも、この肉体を魚に食べてもらおう」

 

人間は特別な存在ではありません。

喰って食われてを繰り返す、ごく普通の生物です。

「いただきます」と神仏や食材に感謝するのもよいでしょうが、その全てが一つなぎの現象であることを思い出せれば、「何にどう感謝するか?」は問題ではなくなります。

 

理解こそできないけれど、それに限りなく近い確信なら掴めるかもしれない・・。

そこに「いただきます」の深い智慧が隠されています。

 

 

「いただきます」を超えた先に

かつて一世を風靡した「千の風になって」という曲では、「私は死後、風になって大空を吹き渡っている」と歌っています。

 

つまり今吸ってる空気は、かつては誰かの遺体だったということです。

同じように、昨日食べたごはんは、その前は全く別の姿をしていました。

 

いただいた食べ物に実体がないように、私たち自身にも実体はありません。

流れる川のように、一瞬たりとも同じ姿に留まっていることはできません。

 

そう考えると「いただきます」の精神は、食事に限ったものではありません。

「いただきます」は誰にも理解できない不思議な現象として、今この瞬間も目の前にあり続けています。

 

 

さあ召し上がれ

 

赤ちゃん:yalehealthによるPixabayからの画像 

女の子の絵:Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 

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