禅問答(ゼンモンドウ)って何?
どうしてあんなに意味不明なの?
そもそも何のためにやってるの?
世界的に市民権を得つつある禅(ZEN)は、ビジネス書などで取り上げられることもあり、禅問答に触れる人が飛躍的に増えました。
一方で、禅に興味を持ちつつも、その難しさから脱落する人が後を絶ちません。
そこで、禅の専門家でもなんでもない私ではありますが、その魅力を伝えてみようと思います。
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禅問答とは何か?
まず禅問答とは何か?
ググるとこうあります。
「日常的思考を超えた世界に修行者を導くもの」とは一体なんでしょうか?
禅問答の目的はズバリ「悟るため」です。
つまり禅問答とは、「悟り」=「日常的思考を超えた世界」に向かって、修行者を導くための過去問集のようなものです。
一種の面接試験のような修行方法で、師匠と弟子が1対1で対面し、問題を与えられます。
その場で弟子が答えられなければ、また定期的に同じことを繰り返す、というスタイルです。
同じ問題に5~10年取り組むことも珍しくないそうですね。
現代人から見れば不思議な修行ではありますが・・
それもそのはず、禅問答には決まった答えがありません。
弟子が問題の意図を理解できていると示せれば、どんな解答でもOKです。
逆に他人の答えをパクってきただけであれば、どんな解答もNGとなります。
そこをちゃんと見抜ける人だけが、人に教える師匠役を担えるわけです。
だから弟子は死にもの狂いで答えを探します。
日夜それを考え続け、気が狂う寸前まで試行錯誤を続けて、ある種の臨界点を超えたところで、ようやく発見する。
それが悟りなのだそうです。
「日常的思考を超えた世界に修行者を導くもの」と説明された禅問答の意味が、なんとなく掴めましたでしょうか?
なぜ内容が意味不明なのか?
禅問答は非論理的であることが特徴です。
あまりに荒唐無稽であることから、かみ合わない会話を「禅問答のようだ」と表現されることもあります。
内容が難解なため、よく意味不明だとかバカげていると言われますが、それは欠陥でもイジワルでもありません。弟子のための愛情です。
実のところ、極限までわかりやすく伝えられているからです。
余りにストレートな表現過ぎて、認識しづらいだけです。
どういうことかって?
禅問答の目的は悟りです。であるにもかかわらず、悟りとは言葉で説明できないものです。
したがって、禅問答は一種の悪あがきと言えます。
言葉では決して伝えられないけれど、何かしら表現しないと伝わらない・・というジレンマに対する挑戦です。
論理的に説明することも不可能ではないようですが、それでは逆効果になりがちです。
それっぽく納得した気にさせてしまい、肝心の部分は決して伝わらない、、ここが難解さの原因と伝えられています。(私には到底わかりません。)
では、禅問答の具体例をご紹介しましょう。
具体例1 南泉斬猫(なんせんざんみょう)
南泉(なんせん)という僧侶が、弟子の修行のために猫を殺した話(!)です。
お寺の東側に住む僧侶と西側に住む僧侶が、一匹の猫を巡ってケンカをしていた。
東の僧侶たち「この猫は私たちのものだ!」
西の僧侶たち「いや、私たちのペットとして飼うんだ!」
(猫の所有権で争ったのではなく、猫をめぐる小難しい議論をしていたとの説も)
その様子を南泉(なんせん。僧侶たちの師匠)は黙って見ていた。しかし、争いがいつまでも終わらないのを見ると、猫を捕まえてこう言った。
「おいみんな!禅の僧侶として、この場にふさわしい一言を発してみなさい。できなければ猫を切り殺すぞ!」
僧侶たち「・・・。」
南泉は猫をぶった斬った。
その夜、趙州(じょうしゅう)という力のある弟子が用事から戻ってきた。南泉は彼に猫を斬った話を伝えると、趙州はぞうりを脱いで頭の上にかぶり、部屋を出て行った。
南泉は言った。 「もしお前があの時いれば、猫を斬らずに済んだのに..」
さぁ、あなたが趙州ならどう答えますか?
これが禅問答です。意味不明ですね。
かわいそうなネコちゃん。
これのどこが修行なの?悟りと何の関係があるの?と思われるかもしれません。
しかし、禅問答はふざけているように見えて超マジメです。
そうでなければ、わざわざ猫を殺したりはしません。(実話かは不明ですが)
師匠は弟子を悟りに導くために、弟子は悟るために。
それこそ人生をかけて取り組んでいます。
簡単な解説
殺された哀れな猫は、そもそも誰のものだったのでしょうか?
いやしくも悟りを目指す僧侶たちが、猫を巡ってケンカだなんて、、随分とアホな話です。
趙州はその話を聞くと、履いていたぞうりを頭にかぶって部屋を出ていきました。随分とアホな姿です。
にも関わらず「趙州さえいれば猫は助かったのに」とほざく南泉。これはどういうことでしょうか?ネコちゃん無駄死にじゃん。
現代でいえば猫の殺処分問題が近い
南泉斬猫はフィクションの可能性も否めません。しかし現代の日本では、多くの猫が殺処分されています。平成29年度はの殺処分実績はおよそ35,000頭※1です。南泉斬猫3万5千回分です。
※1 環境庁:犬・猫の引取り及び負傷動物収容状況(平成 環境庁:犬・猫の引取り及び負傷動物収容状況より
それを踏まえて、イメージし直してみましょう。
禅問答は頭で考えるだけではダメで、実体験を伴った理解が必要です。南泉斬猫を絵空事ではなく、現在進行系の難問として捉え直してみましょう。
殺された哀れな猫は、そもそも誰のものだったのでしょうか?
斬り殺された一匹の猫を哀れむ私たちが、猫35,000頭の殺処分には無関心だなんて、、随分とアホな話です。
私たちはその話を聞くと、何も聞かなかったことにして部屋を出ていきます。随分とアホな姿です。
にも関わらず「ペットショップさえなければ猫は助かったのに」とほざく私たち。これはどういうことでしょうか?
このジレンマを解決することが、南泉斬猫を突破するためには必要です。
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具体例2 食後は茶碗を洗え
師匠と弟子のちょっとした会話です。
弟子:「私は新参者です。どうか大切な教えをお聞かせください。」
師匠:「朝ごはんはもう食べたかい?」
弟子:「はい。もう済みました。」
師匠:「なら茶碗を洗いなさい。」
さぁ、これはどういう意味でしょうか?
簡単な解説
「大切な教えは?」という弟子の質問に「茶碗を洗え」と返す師匠。
比較的わかりやすい禅問答かと思います。
前述の説明を引用します。
悟りは別にスゴくない。と考える人も
とある僧侶が言っていました。
悟りは足し算ではなく引き算だと。
知識や経験の獲得ではなく、余計なものが消えることに過ぎないと。
悟りがなんなのかは誰にも説明ができないとしても、それが一部のスゴイ人間にしか得られないものだ、とする固定観念は考えものです。
みんなで茶碗を洗いませんか。
具体例3 2つに切れたミミズはどっちが命?
ミミズの観察結果から生まれた、素朴な疑問です。
僧侶:「妄想しちゃダメだよ。」
質問者:「じゃあどっちも動くのはなぜですか?」
僧侶:「まだバラバラになってないからだよ。」
さて、あなたが僧侶ならどう解答しますか?
簡単な解説
これは命の数え方の問題です。
ミミズを真っ二つにすれば、命も2つになる?それとも最初からミミズは2つ命を持っていた?と質問者は悩んでいます。
僧侶の解答は「バラバラになるまでは動いてもおかしくないでしょ?」というもの。
ではバラバラって具体的に何個なのでしょうか?
何個までなら命をキープできるんでしょうか?
というか、そもそもミミズの命の定義を、誰に決められるのでしょうか?
その前提から考え直す必要がありそうです。
命は加算名詞なのか?または不可算名詞なのか?
現代における移植問題はまさにコレ
現代には発達した医療があり、ミミズはそっくり人間に置き換えられます。
脳死からの移植を行う場合、肝臓はAさんに、腎臓はBさんに、小腸はCさんにとバラバラに内蔵を配分します。
結果としてドナーは(いわば)死亡しますが、各内臓はそれぞれが生きています。
さて、ドナーの命はどの内臓にあるのでしょうか?
ドナーはまだ生きていると言えるのでしょうか?
なお科学はこの問題に答えを出すことを保留しています。
臓器移植の運用は、その判断を各自に委ねる形で動いています。
禅の世界では、古くからそれなりの答えが存在しましたが、それは科学が扱う現象の枠外にあります。
禅が哲学ではなく、宗教としてカテゴライズされている理由です。
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まとめ 禅問答はダイレクトに答えを言ってる
「日常的思考を超えた世界に修行者を導くもの」である禅問答とはなにか、少しは垣間見えましたか?
分かりづらいとされる禅問答ですが、実は答えをバシッと言っています。
常識的な感覚からは理解しがたいだけです。
回りくどい表現を一切せず、極限までダイレクトに伝えるスタイル。
それが禅問答です。
たぶん。
しかし、結局悟りは言葉では伝えられません。
文字や言葉による伝達では不十分で、五感をフルに使った体験が必要不可欠です。
だから他の学問とは一味違った探求の、スリルと楽しさがあります。
そんな禅問答の痛快さが、少しでも伝われば幸いです。
禅が導く先には、人生を楽しく過ごすための秘訣が隠されています。
禅問答は楽しいよ!
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コメント
僕が趙州なら
僕の気を引きつけないでください。
それでも悟りの道を解く者ですか。
話を聞かされただけで猫について考え始め、執着してしまう。
目の前で殺すなんてもってのほかだ。
どれだけ強く視点を当てさせるつもりだ。
考える事を辞めなければならない。
何も考えてはならない。