日本には人形供養という文化があります。
一般社団法人日本人形協会様のHPより引用
がしかし、
世界一有名な人形(人型玩具)であるレゴは、人形供養の対象となるケースが稀です。
大抵は日本人形やお雛様、バービー人形などばかり。普及率はレゴのほうが上にも関わらず、なぜでしょうか?
レゴは見た目に生命感がないから?没個性的で愛着が沸かないから?
それも一理ありますが、もっと決定的な要因があります。
それこそが、レゴが「世界一、超天才的なおもちゃ」と呼ばれる所以です。
※作家・哲学者であるヨースタイン・ゴルデル氏は、著書「ソフィーの世界」にて、デモクリトスの原子論を説明するにあたり、レゴを「世界一、超天才的なおもちゃ」と評しています。
レゴは生命の本質を直感的に理解できる
レゴに人形供養の必要性を感じない理由は、レゴはバラバラに分解できるからです。
より正確に言うと、分解して組み直すのが前提になっているからです。
人形をバラバラにして、別の形に組み立てて遊ぶ = 猟奇的。エグい!
レゴをバラバラにして、別の形に組み立てて遊ぶ = 創造的。エラい!
ここが決定的に違います。やってることは同じなのに。
なぜなら、レゴには決められた完成形がないからです。あるべき姿に縛られていません。何をどう組み立てて、何を作ったってOK!それがレゴの本質です。
そしてそれは、生命の本質でもあります。
私たち人間も、動植物や物体たちも、あらゆる存在を構成するパーツ(原子やら素粒子)の目線で眺めれば、、決められた形などなく、あるべき姿に縛られない。何をどう組み立ててもOK!
(物理法則の制限はあるけれど。)
仮に生命を再現するのが人形の使命だとすれば、より使命に忠実なのは、日本人形よりもレゴと言えます。もし日本人形にだけ生命が宿ると感じているとしたら、それは単なるルッキズムではないでしょうか?
どうやって人形の誕生したか(製造過程)を考えずに、処分する時にだけ人形の生命を気にしているとしたら、、。それを供養と呼べるのでしょうか?
童心に還って、「世界一、超天才的なおもちゃ」であるレゴで遊び直してみると、きっと発見があることでしょう。
レゴに学ぶ供養の本質
お雛様によるトイ・ストーリーが話題です。
うん、オタ芸もやってみた。https://t.co/bfE8lqd8ab
— 福よせ雛プロジェクト (@fukuyosehina) January 19, 2020
映画「トイ・ストーリー」の人形たちが、子どもに遊んでもらうことを追い求めたのとは対象的に、お雛様たちは新しい生き方をエンジョイしています。
素晴らしい取り組みです。ぜひ世界中に発信して頂きたい。
低予算でいいから、映画でも作れば発信力があるのにな。オー!マイキーの監督あたりに白羽の矢が立たないかなぁ?「LEGO バットマン ザ・ムービー」の二番煎じでもいいから。
さて、何が言いたいのかというと、
これらも全て供養です。悪ふざけではありません。
なんとなく葬儀の真似事をするよりも、こうやって楽しんであげたほうが良い供養になります。人形たちにしたって、意味もわからないお経を聞いてお墓に収納されるのなんて、まっぴらご免ではないでしょうか?
現代人が形式だけの葬式や墓を、少しずつ拒み始めたように。
お雛様がオタ芸をしたって、マネキンがブラックジョークを言ったって、悪役のジョーカーがヒロイン化(ガチです)したって、いいじゃないですか。
型に押し込めないで、存在を思い切り楽しんでもらう。これが本当の供養です。
私には、人形たちがそう言っているように思えてなりません。
更に皮肉なのは、日本の葬儀を司る仏教のコアメッセージは、
「人間や世界はレゴのようなものだよ。くっついたり離れたりして構成されていて、実体というものはないよ」という周知(諸行無常や諸法無我)にあるからです。
レゴには自我や所有という概念が無い
レゴには” 誰か専用のパーツ ”という概念が、原則的にありません。人形のレゴ同士から、自由に頭や手足を付け替えることができます。その気になれば、頭のパーツだけで壁を作ったり、足のパーツを屋根から吊るすのも自由です。
生命は実体ではなく、現象や機能である。つまり誰かが独占する原子(パーツ)はない。私専用の心臓もない。あなただけの遺骨も存在しない。
と直感的に理解できるのが、レゴの凄さです。初期哲学や科学における原子論、仏教でいう空を、わかりやすく見える化しています。お雛様やバービー人形にはできない芸当です。
レゴは供養しなくても祟らない
私が子供の頃、大事にしていたウルトラマンの人形を、何者かにゴミ箱に捨てられた事件がありました。(犯人は未だに不明ですが、まぁ兄弟の誰かでしょう。)
兄弟全員が判事(父親)の前に立たされ、数十分にわたって自白を要求されましたが、自首する者はいませんでした。
もしこの時、捨てられていたのがレゴであれば、きっと別の展開となっていたことでしょう。きっと父は、ここまで怒りや悲しみを感じなかったと思われます。
では、ウルトラマンとレゴの間に、一体何の差があったというのでしょうか?
違いがあるとすれば、それは人間側が投影した思いだけです。
このように、供養や葬式は故人ではなく遺族のためにあります。それは人形供養でも全く同じです。
葬儀のあり方が変わっていくこの時代、レゴにも新しい活躍の場が与えられそうな予感がします。
話は変わりますが、2017年に名古屋のレゴランドへ行った際は、正直(大人には)残念な印象でした。
不自然に高い料金、凄いには凄いが、リピーターを呼ぶのは厳しそうなディスプレイ。すぐに回れてしまう手狭さ。
しかし、「世界一、超天才的なおもちゃ」であるレゴのポテンシャルは、こんなものではありません。今後の改良を待って、いつか子どもでも連れて遊びにいく予定です。
それに私の夢は、世界中をレゴランドにすることです。レゴが暗示する空のコンセプトを、なるべく面白く世の中に提供することです。きっと世界がテーマパークのように、楽しい場所に変わっていく筈です。
レゴにはこれからも、素晴らしいインスピレーションを授けてくれることを期待しています。
人はなぜ堕ちる? 這い上がるためだ。
by トーマス・ウェイン
Andrew MartinによるPixabayからの画像
Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像
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