1993年公開の「生きてこそ」(原題:Alive)という映画のレビューです。
「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」という事故を題材とした実話であり、実際の生存者の監修のもとに作られています。
本作のテーマは、極限状況に置かれた人間の振る舞いです。カニバリズム(人を食べること)が行われた事例としても有名です。
物語のはじまりに、とあるラグビーチームとその家族を乗せた飛行機が、雪山に墜落します。
十分な食料もなく、救助も打ち切られた状況下で、若者たちは亡くなった友人を食べて飢えを凌ぎながら、生存のために超人的な奮闘をします。そして70日の戦いの末、無事に雪山を下山して救助される、というお話です。
この映画は、生存者に自己を重ねて、読み解かれることが大半です。
しかし当記事では逆に、亡くなって食べられた犠牲者に焦点をあてます。
映画の題名である、「生きてこそ」ことを表現するには、生存者の理解だけでは片手落ちだからです。「死んでこそ」を離れて「生きてこそ」は成立しません。
食べると食べられるは、必ずセットです。
そう思うと、より深くテーマを理解することができます。
なにも遭難を疑似体験しなくても、「死んでこそ」は極めて身近な営みなのですから。
もし事故死がなければ、映画化できなかった
この物語を感動的なストーリーにしたポイントは2つです。
・事故による直接的な死者が多く出た(殺しをせずに食料?を確保)
・冬山のため遺体が腐らなかった(保存性を獲得)
片方でも条件が消えれば、全く違う展開になっていたはずです。
「能動的な殺しを迂回しつつ、人を食料として長期的に食べられる」条件下でなければ、、殺し合って喰い合う事態になっていた可能性大です。
「私達がアニマルになる前に、なんとかしよう」と劇中でも触れられていたように、生存者たちの奇跡の生還を支えたのは、紛れもなく(事故により)亡くなった犠牲者たちでした。
このように、「生きてこそ」と「死んでこそ」は不可分なのに、後者はなぜか忘れられがちです。
まぁ「死んでこそ」の日常性が理解されれば、作品のメッセージ性は激減して、映画化する大義がなくなっちゃうんですけど。
食べること、食べられること、両方とも悲劇?
映画のレビューを眺めると、遺体を食べるしか選択肢がなかった生存者たちは、深く同情されています。
一方で、食べられた死者たちの不憫さは、あまり話題にのぼりません。
言い換えると、
望まずに遺体を食べるのは可哀想だけど、
望まずに死後に食べられるのは問題ない。
と感じている人が多いようです。
となると問題は、
①ヒトという種を食べる側の苦痛なのか?
②恐怖や痛みなどの、食べられる側の苦痛なのか?
つまりその葛藤は、
自分のため?他人のため?
と集約することができます。
人がカニバリズムや犬猫を食べるのを拒むのは、結局誰のためなのでしょうか?
もし答えが「自分のため」であるのなら、それはタブーというよりワガママに近い代物です。
すべては慣れの問題らしい
はじめてカニバリズムをするシーンは、極めてうやうやしく描かれていました。
葬式みたいに遺体の近くに整列した姿を、引き気味のカメラで撮るアングルにて、リーダーが遺体から刃物で肉を切り、先陣を切って食べてから、こう言いました。
「さあ、食べたからには動くぞ」
しかし一ヶ月後、
山を降りて助けを呼びに行くため、大量の食料(もちろん肉)を準備するシーンはというと、、極めて淡々と描かれていました。
私達が普段ハンバーグをこねるような感覚で肉を用意し、ブツもバッチリとアップで映していました。
こうして映画を見る人は、
「カニバリズムったって、慣れちまえば日常だよ?」
という生存者の経験を、少しだけ追体験させてもらえます。
映画が評価されたのは、私達が甘ちゃんだから
事件の生存者たちは、極限状況を乗り切って、無事生還を果たします。
「生きてこそ」がタイトルですもんね。
事件の死亡者たちは、極限状況を乗り切れなかったものの、生存者たちの糧になりました。
「死んでこそ」生存者に貢献してくれました。
ふと気づくと、普段食べている食事の原料である家畜たちは、極限状況のような飼育環境から逃れられない上、生還することは決してありません。
「死んでこそ」が使命だからです。
もし映画「生きてこそ」に心を動かされたのであれば、、
人間が生き抜くための厳しさだけではなく、そのために犠牲になっている存在についても、少しは感動できないと、ですね。
「死んでこそ」は極限状況ではなく、気づかない程の日常なのですから。
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