映画「ジョーカー」の鑑賞レビューです。
メインテーマは「善悪とは主観である」です。
作中のトークショーにて、アーサーが絞り出すこの台詞に、全てが集約されます。
しかし、映画の感動はすぐに忘れてしまうもの。だったら私たちの生活にて、腑に落としましょう。
※ネタバレありです。嫌な方は見ないでね。
「ジョーカー」は危険な作品か?
犯罪を誘発する危険な作品では?、との危惧を制作陣も持っていたみたいですね。
映画のレビューなも、鑑賞後に胸がズシンと重くなった、との声が多いです。
がしかし、心配いりません。
既に犯罪は起きています。
映画を見る前から。日常的に。気付いていないだけで。というか「犯罪かどうかも主観」ですからね。
以下、アーサーの言葉を軸に「善悪は主観である」というテーマの理解を試みます。
「自分を偽るのはウンザリだ。喜劇なんて主観だろ?」
「人殺しが笑えることなのか?」とトークショーの司会者であるマレーに尋ねられたアーサーは、観念したようにこう言います。
「そうさ、自分を偽るのはもうウンザリだ」
アーサーは既に、悪いやつ(と彼が思う人)を殺すことは悪ではない、と吹っ切れています。
彼はこう続けます。
「だってそうだろ?この社会だって、まさにそうじゃないか」
「善と悪を自分の主観で決めている」
トークショーのホストは、狂った男の妄言だとばかりに、冷ややかに聞いています。
しかし、コレは誰にも否定できない事実ではないでしょうか。
私たちに理解しやすい例では、牛や豚は殺していいけれど、犬と猫はダメだとか、、動物だとわかりやすいですね。
動物ではなく人が相手でも、中絶、出生前診断、死刑制度、尊厳死、途上国の搾取など、枚挙にいとまがありません。(法的にも感情的にもグレゾーンばかりです)
そう考えると、映画を見る前から、、とうの昔から、、私たち全員が無意識に善悪を判断して生きていたわけです。
アーサーはそれに気づき、完全に受け入れました。
「だから自分で決めればいい。何が笑えて、何が笑えないか」
とアーサーは結論します。
彼は神経が高ぶると笑ってしまう病気を患っており、気持ちと外面がかみ合わないが故に、他人に理解されない孤独を抱えていました。
さらには、コメディアン志望のくせに、笑いのツボを全くわかっていません。他人のスタンダップコメディを見て勉強する際も、一人だけずれたタイミングで笑い声を上げてる始末です。
彼の笑い声は本当にウケていたのか、あるいは場に馴染むための芝居だったのか、作中の描写では定かではありません。いずれにせよ彼は、「笑いが主観的であることを、誰よりも痛感できる」人物だったことは確かです。
私たちに理解しやすい例では、マグロの解体ショーはおめでたいけれど、ニワトリの解体ショーは醜い、とかでしょうか。
これが主観でなくてなんなのか。
「僕が歩道で死にかけていても、踏みつけて通るくせに」
アーサーは証券マン3人の殺害を咎められ、こう切り返します。
「なんでみんな、あんなやつらに同情するんだ?」
「僕が歩道で死にかけていても、踏みつけて通るくせに。誰も僕に気づきやしない」
私たちに理解しやすい例では、
「牛がお皿の上で死んでいても、何も考えずに食べるくせに。誰も牛に気づきやしない」
牛は同情に値しない、というのならそれで結構ですが、多くの人は牛の死を直視できないときています。
まぁ牛はいいとして、、、問題は「人間であるアーサーをどう扱うか?」であり、その判断根拠は牛の場合と何も違わず「善悪は主観」です。
ここが焦点ではないでしょうか。
違うかい?アーサー。
危険なのは「ジョーカー」よりも、私たちの判断能力
ピエロのメイクは、もともとは人を笑わせるためのサービスだったのに、いまや不気味なイメージが浸透してしまいましたね、、。
「人生は近くで観ると悲劇だが、遠くから観ると喜劇である」
とチャップリンが言ったそうですが、
「生物の殺害は近くで観ると悲劇だが、遠くから観ると喜劇である」
とも言えそうです。私たちの行いを振り返るとね、、。
とにかく、問題は映画「ジョーカー」ではありません。
作品で表現されたメッセージを、私たちが受け止めれられるか否かです。
本作品は、現代社会に対する警告を多分に含んでおり、誰もがジョーカーになりうることを伝えています。
でも、どうせすぐに忘れられてしまうのだから、、、映画以外のもので、できれば日常的な事柄にからめて、このメッセージを発信したい。
私の中のジョーカーは、そう言っております。
おやすみ。そして最後に、これが…
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