おくりびとを深読みする④「汚らわしい!」も「神聖だ!」も違うよ。

時事ネタ
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映画「おくりびと」シリーズ第4弾です。注目する場面は

死者に日常的に触れる夫の手を振り払いながらの

「汚らわしい!」

 

 

この映画で最もインパクトを放った言葉ですね。一般人代表者の奥さまによるセリフです。

(ややネタバレが含まれます。映画を観てない方は気をつけてね!)

 

【この記事のあらまし】

・死体は汚らわしい?でも納棺作業は美しい?本当はどっちも行き過ぎ。
・死は特別ではない。美しくも醜くくもなく普通。
シーソーのように揺れ動く死の印象。不動であるシーソーの支点こそが本質。

 

 

夫がごまかしてきた職業を知り、頼むから辞めてほしいと頼む妻。話がこじれ、妻を引き止めようと夫が手を伸ばすと、「汚らわしい!」

うん。ぶっちゃけ、そうですよね。

死んだ人間に毎日触ってるだなんて。日本で生まれ育ったなら仕方ありません。だってそういう空気の社会だし、ちゃんと見たり考えたりする機会なかったし。

 

夫はこう問い返します。

「(汚らわしいのは)死んだ人を毎日触るから?」
「人はみんな死ぬだろ?僕だって君だっていつか死ぬ」

しかし妻には屁理屈にしか聞こえなかったようです。この奥さんは、生きたタコを絞められずに海に還そうとする反面、解体されたニワトリはご馳走として食べる人です。まぁ普通の日本人だと思います。

 

そんな彼女も、成り行きで同伴した納棺作業を目にして考えを改めます。それは洗練された弔いだと。

現場を見たことが無かった故に、イメージだけで判断していた自分に気づいたからです。夫が職業にプライドを持つ理由を理解し、サポートしていく意思を固めます。

こんなストーリーです。

 

 

さて、私が気になっているのは、納棺士やら葬儀が過度に美化されてしまった点です。汚らわしい!の反動なのか、必要以上に神聖視されるような危うさが垣間見えます。

死体や死体を整える行為は汚らわしいものではありませんが、かといって美しい訳でもないです。普通のことです。
美しかったのは納棺仕の所作であり、それは死の本質とは別です。所作はある意味でパフォーマンスに過ぎません。その程度で「汚らわしい!」が覆るとしたら、反対の方向に脱線し直したに過ぎません。あとでツケを払う羽目になります。

 

繰り返しますが、死は普通の現象です。

 

人間の死体は最初は気持ち悪く見えたり、納棺作業を通してみると美しく見えたりします。でも、もし繰り返し経験する機会があれば、そのうち慣れて普通になります。何も感じなくなります。毎日を肉を食べていも、その肉の生産過程すら想像しなくなるのと同じです。結局投影しているイメージは思い込みなんです。印象の落差から生まれる一時的な錯覚です。

 

だから遺体や死というのは、汚らわしい!と必要以上に遠ざけたり、過度に美化するのは少し危険です。
ごく普通の事柄なんです。地球に生命が生まれて40億年、ずーーと繰り返されてきたサイクルだから。そんなの屁理屈だって?

 

いいえ。現実にインドでは公然とご遺体を河に流す文化があって、そこへ行った旅行者たちも、最初は驚いてもすぐに順応しているではありませんか。同じように慣れればみんな牛でも豚でもタコでも捌けます。捌く対象が人間であってさえも、解剖や手術が普通に行われているのですから。全ては慣れです。認識は落差から生まれるものです。落差に慣れさえすれば、認識も薄まります。

 

死は特別なことではなく日常的な事柄です。毎日食べているお肉ぐらいに身近な存在です。ところが、死と生を注意深く見つめると、その境目が曖昧であることに気づくはずです。どこからが誕生で、どこからが死なのか?よくわからないんです。つかみどころのない現象で、みんなが勝手にルールを定めて分かったつもりになっています。

これ以上ないほど大切な話なのに、誰もその正体を知らない。それが死です。では生と死とはなんなのか?普段お肉を食べているとき、一体に何が起きているのか?

 

 

きっとその答えは、汚らわしいと美しいのちょうど真ん中にありそうです。汚いと感じるためにはキレイとの対比が必要であるように、物事の認識には落差と比較が必要です。

生物の生死を含め、全ての印象は思い込みです。実体ではありません。思い込みだから、シーソーのように揺れ動き変化し続けています。そのシーソーを支えている支点、揺れ動かない土台である支点に相当する何かが、生と死とは何か?という質問への答えです。

 

死に触れるのは穢れっていう文化はどうかと思いますけど、美しく素晴らしい!ってのもいかがなものか。私たちがどう感じようと、死は死のままです。

汚らわしい!いや、やっぱり美しい!って忙しくシーソーを漕ぎまくった挙句、いつか疲れてシーソーが止まった時に見えてくる何かが、ありのままの死です。おそらく本当の生と死は、身近すぎて気が付かない、空気のような存在なのでしょう。

 

 

 

 

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アイキャッチ画像:Michael GaidaによるPixabayからの画像

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