納棺式(ノウカンシキ)の真の価値についての記事です。
ご家族が亡くなった際に納棺式をすることがあれば、その前後にお読みいただけると幸いです。
より納棺式の価値が理解できるはずです。素晴らしい弔いができると思います。
結論から言えば、納棺式はする必要がありません。
「気づかぬ内に、毎日していたのだ!」と気づかせるための儀式だからです。
何気ない日常の意味を再発見するための、素晴らしい仕組みだからです。
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納棺師という仕事が、映画「おくりびと」で世に知られるようになって久しいです。
彼ら彼女らの仕事は、納棺式と呼ばれています。
ご遺体に死装束を着せたり、カンオケにやさしく移動させたりする儀式です。
「おくりびと」のように納棺師が一人でこなすのを遺族が眺めるか、ご遺族と共同で行うスタイルが一般的です。
この姿が絵になるものだから「おくりびと」という素晴らしい映画が産まれました。
納棺式はご遺族へのサービスとして販売され、新しい弔い文化として定着しました。
めでたしめでたし。
・・というのは違うだろ!
と私は思います。
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なぜなら、納棺式は必要以上に美化されているからです。
言葉は悪いですが、感動ポルノとして販売されている側面すらあります。
だっておかしいじゃないですか。
「ご遺体の納棺作業を通して、死を実感して別れの気持ちを整える」
だなんて。
「ご遺体に触れることで、死への忌避感が薄れた。安心してお見送りができた」
だなんて。
なぜなら、納棺式なら毎日しているからです。
食事という形で、肉体というカンオケに、誰もが毎日ご遺体を扱っているからです。
なぜピンとこないかと言えば、食材がご遺体であることを忘れているからです。
いや、知っているけど無視しているからです。
お弁当を作るのは、一種の納棺式です。
カンヅメを開けるのも、一種の”逆”納棺式です。
やってることは全く同じです。
目的のためにご遺体を整えて箱にしまう。
あとはそこに意味を見出すか否か?だけの違いです。
もし納棺式に感動したのに、この現実に気づいてないとしたら、死というものを全く理解していないことの証です。
生物はいつか死に、肉体は朽ち果てます。
火で焼かれて千の風になったり、他の生物に食べられたりして、世界を循環していきます。
それを深く理解する手助けをすることが、納棺式の目的です。
葬儀や弔いが目指す、最大の目的です。
つまり、納棺式なんてやる必要がなかったのです。
普段からやってますからね。
その現実に無自覚だからこそ、納棺式が(必要以上に)美しく見えてしまったのです。
(お花入れの絵ですが、まぁ似たようなものです)
でも大丈夫です。
現実を正しく認識すれば、気持ちいい弔いができます。
そして毎日の食事が、そのまま納棺式に変わります。
特定の故人だけを弔うためではなく、あらゆる生命を一律に弔うための儀式になります。
そう感じる頃には、もうお気づきのはずです。
「納棺式が美しいのではなく、ふだん死を無視してきたのがダサいだけ」であったことを。
納棺師たち本当に伝えたかった、「死をより深く理解する」という意味を。
釘打ちの時間です
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