家畜の気持ちが少しわかる?献血は最小リスクで他人に喰われる経験

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たまに献血に行ってます。

なんのためかって?決まってるでしょう?

 

 

 

 

 

食べ放題のお菓子!(*´з`)

毎回思うんですけど、お菓子のラインナップが貧弱なのはもったいない。

俺の好きなオレ〇とかブラック〇ンダーを置いてください!そしたら、血液の供給が、劇的に安定すること確実です。エビで鯛が釣れますよ。

あと新作お菓子のモニター試食回とかしてくれないかな。プロパガンダは献血女子会とかでよいでしょう。

 

 

さて、思うに献血とは「他者に食べられる体験」と非常に近いものです。文字通り血肉をほかの生物に移すわけですから。

普段肉を食べることはあっても食べられることは稀ですから、食べられる側の気持ちが少しだけ理解できるかも。家畜との違いは、自発的に食べられていること、痛みが最小限であること、死なないこと、などが挙げられますが・・・

 

【あらまし】

・献血はこの身を誰かにおすそ分けすること。すこしだけ代償が必要。
・大きな犠牲を伴う場合には移植と呼ばれ、賛否両論で注目される。
・もっと大きな犠牲を伴う食肉は、空気のように当たり前。なんで?

 

 

私たちが動植物を食べるのは、死なないためです。同じように輸血をするのは、誰かを死なせないためです。ちょっと大げさだけど、少し血を提供するだけで、誰かの命が救えるなんて素晴らしい。

献血の場合、ドナーの負担はごく僅かです。「はーい。一瞬だけチクッとしますよー」を我慢した後は、10分くらいゴロゴロしながらTVを見てれば万事OKです。

こないだ私が行った時なんて、TVに出てた本田翼が可愛かったせいで、注射針を刺されたことにすら気づきませんでした。

 

ともかく、私と誰かの間を血液が移動し、どちらの命にも被害がほぼなく、メリットだけがある(※)のが献血です。

※献血をタブーとする信仰とかもありますが。

 

そして献血の延長には、移植という医療があります。

やっていることは献血と似ていて、ある命を構成するパーツを他の命に移す行為なのですが、これは大変ハードルの高い行為です

なぜなら、当事者のリスクが献血とは比べ物にならない程高いから。脳死からの移植とかだと、輪をかけて複雑な話になります。

 

複雑さの原因はリスクの高さに限らず、①ある命の為に、ほかの命をどこまで犠牲にしていいのか? ②そもそも何をもって命とみなすのか?がわからないためです。

 

そんな移植医療にはドラマ性があるから、人間心理を扱う物語の題材になることも多いです。

病気と闘う人の立派な姿勢や、家族のためにドナーとなる気高さに感動したり、最新スマホを買うために腎臓を売るような社会に哀しみを覚えたりして、人々の死生観は変化してきました。

 

では、食べるための肉の場合は?

みんな興味がありません。ただ美味しければいい。

 

献血や移植と同じく、肉を食べることもある命を構成するパーツを他の命に移す行為であると共に、移植以上に大きな代償を伴います。動物は食べられることを望んでないし、苦しんで死ぬケースもあるし、何万匹、何億匹の消費規模があります。

なのにみんな興味がない。人間じゃなくて動物だから、しょうがないか。

 

その一方で、ペットロスという言葉が市民権を得てきています。ペットの死別に心が整理できずに、生活に支障をきたす人が増えて困っているのだとか。

・・・なんという皮肉でしょう。問題はヒトか犬猫かの種別の問題ではなく、身内かどうかなんですね。ペットは身内で家畜は他人です。生命倫理よりも感情が大切なんです。

 

だから、他人は何億匹死んでもよく、身内さえ幸せならそれでいい。ってのが本音です。

私も以前そう思っていましたし、それを認めるのは嫌でした。

 

 

ペットロスの心情よはよくわかります。一応経験者ですから。

だからこそ、食肉や命に関して無頓着だった私は、命の正体が知りたくなりました。それを知らないと、あの時の悲しみが安っぽいものだったと、認める他なくなるからです。

もっと言えば、これまで感じた喜怒哀楽は全て、ただの思い込みによるものだったのでは?と疑問をもったからです。

 

命や人の生死というものが、誰にも定義しきれない現象であるのなら、命なんて本当はないんじゃないでしょうか?

生き物がそれぞれ命を持っているんじゃなくて、まず命という巨大なシステムがあって、その上に生物が循環しているのでは?私が死のうが生きようが、総体としては何も変わらないんじゃねーの?

 

それはあたかも、粘土で遊んでいるようなものです。

粘土をちぎって人を作ったり、カエルを作ったり、なんでも自由に作れます。そして人の粘土がカエルの粘土を食べようが殺そうが、結局は同じ粘土のままです。

どんなに美しい物語を展開しようと、残酷な話を上映しても、最後は粘土を一つにまとめて元通り。また遊びたくなったら、粘土でまた適当にキャラクターをこしらえる。その繰り返し。

 

私の血が誰かに輸血されたとしたら、世界のどこかに私を食べた誰かが、血を分けた兄弟姉妹がいることになります。血は水よりも濃いとか、もう関係ない。献血や移植が普及した社会では、過去の概念です。

血縁とか、民族とか、種別とか、家族とか他人とか、生きるとか死ぬとか、全ての概念は実体の無い思い込みなので、縛られて苦しいくらいなら手を放してしまいましょう。

楽になります。何が起きたって、私たちは粘土のままです

人は必ず死にます。失血で死のうが、脳死になろうが、どうせ粘土です。

 

・・・でも、以前ゲイの知人に無理やり喰われかかった時は、生きた心地がしなかったな。まだ修行がたりませんね。

リアルに喰われてる家畜には、やはり頭があがりません。

 

 

はーい、一瞬だけポチッと

 

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