機内食が暗示するベジタリアン市民権獲得の行方

ヴィーガンと肉食
この記事は約6分で読めます。

機内食でベジタリアン向けを頼めることが増えました。

 

(容器にVGとラベルがあります。)

 

普通の機内食はラックに積めたものを一度に配膳するけど、ベジ向けだとCAさんから個別に手渡しで、しかも一番乗りです。エコノミークラスで王様気分を味わう裏技を見つけました。

 

【あらまし】

・ベジタリアンの認知と普及はまだ発展途上。
・普及の後押しには実際に生物を絞める経験が役に立つ。
・それは確かに怖い経験だけど、残酷さと同居する神聖さを発見できるかも。

 

 

たまたま座席の最後列だったので100人分位の座席が見わたせたのですが、他にベジ向けを選んだ人は二人くらいでした。少ないから先に済ませちゃうんでしょうね。

 

 

王様フードを食べながらふと思いました。

あれ?私だけが食べ始めてる・・・。

 

 

みんなまだ配膳すらされてないのに!

・・・なんだこの湧き上がる優越感は?

 

 

これはまさか、、、そうだ!

 

 

 

給食が食べきれなくって、昼休みに一人泣きながら詰め込んだアレの逆だ!

 

あの時の悔しさが報われた!

 

でもこれマズッ!黄色いのが殺人的に不味い!味が無いし食感もグチャグチャかよ!

せっかくいい気分だったのに、これだから機内食はよォォ!

 

 

 

 

・・・だとしてもベジタリアンが尊重されるのは嬉しいです。

普段の飲み会でもこうだといいのに、未だに腫れ物に触るような扱いが残っています。

 

 

 

ベジタリアンだと宣言するだけで面倒くさくて扱いづらい人って思われるからです。

人は感情の生き物だから、一度敬遠されると説明しても理解を得るには時間がかかります。だから隠して妥協することもしばしば。

現実問題としてベジ生活は交友関係にある程度の犠牲を強います。

 

 

このようにベジタリアンの市民権はまだ十分ではありません。

この先はどうやって社会に受け入れられていくのでしょうか?

 

 

私はなんでも食べるがモットーでして、ゲテモノ系でも積極的にトライする人間なのですが、普段はほぼヴィーガン※です。

(※動物に由来するモノを一切食べたり着たりしない人。)

 

 

肉も卵も乳製品も食べると旨いから好きだけど、殆ど食べません。

というのは肉を食べるときは、頭の中でその動物を絞めるシュミレーションをしたうえで食べるようにしているからです。

それが筋というか、自然だと思うから。

 

 

 

頻繁にこれをやると私の場合は疲れてしまうし、体がもうベジ食に慣れてしまいました。

 

ところでベジタリアンへの理解が乏しい世論の中で、フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグが面白い挑戦をしてましたね。

AFP BB NEWS「食べるのは自分で絞めた肉だけ」フェイスブック創業者 2011/5/27

一年間、自分で絞めた動物以外は絶対に食べないと。

 

 

 

彼がこれを始めたきっかけは、ホームパーティーで豚の丸焼きを食べた時、みんな喜んで豚を食べるけれど、それが生き物だったことを思い出すことを避けているように見えて、その不自然さに疑問を感じたから、とのことです。

 

 

素晴らしい企画です。

みんながここまでする必要はないけど、共感する人が増えればベジタリアンは特殊な人だってイメージがより薄れます。丸焼きになった豚もきっと浮かばれるでしょう。

 

 

 

ベジタリアンが敬遠される一つの理由として、一部の過激な動物愛護団体のイメージの悪さが挙げられます。

 

一切の肉を食べることは非人道的な大虐殺で、すぐにでも改めるべき大罪だ!と彼らは声高に主張しています。

残酷な(側面だけを映した)屠畜作業の映像をネットで公開して共感を煽るやり方は、結構成功しているみたいです。

 

 

 

確かに一理ある意見で、私自身も肉食文化は今後少しずつ減っていくと考えています。

それでも肉を食べて発展したきた文化、経済、技術などをまとめて悪と断罪するのは行き過ぎではないでしょうか。

 

先人たちが作り上げた肉食文化は自然なものです。生き物を殺して食べることは悪ではありません。ただ一つ言えることは、

 

 

生き物を殺して肉を食べることは決して悪ではないけれど、
その現実を直視しないまま食べ続けることは、限りなく悪に近いということです。

 

 

 

だったら解決は簡単です。たった一度でも実際にやる、もしくは意識するようにすればいい。

いっそ法律でもつくりますか。通称マーク法案。

 

 

 

 

「小中学校の給食では全ての食材の元の姿を意識して食べれるまで、昼休みに入れま10!」

 

いやトラウマになるか。タダでさえ辛い思い出になるのに。

 

 

 

じゃあまずは大人でやりましょう、まず大人が率先してそんな態度を見せれば、自然と子供にも伝播します。

毎回でなくても、年一回でも充分です。

もう子供ではないのだから。ちゃんと直視しようぜ。

 

 

 

実は動物を殺して食べる経験をすると、一定の割合の人は残酷さの中に神聖さを見出すようになります。

 

 

何気ない食事の中にも崇高な命の存在があって、生きていくことの厳しさや素晴らしさが五臓六腑に染みわたります。きっとその言葉にできない感情は、普段食べているお肉を劇的に美味しくする魔法のソースとなるでしょう。

 

 

だからまずは、肉を生産する現実をちゃんと見ることが、ベジタリアンや動物愛護家、ひいては焼肉愛護家たちが仲良く暮らせる社会にするためのステップです。

 

 

しかしこのテーマは突き詰めて考えると、いずれ答えが出せずに気が狂いそうになる魔境にぶつかります。

どの動物までは食べていいのか?境目を決められるのか?そこに善悪はあるのか?そもそも命とはなんだ?

 

が、実はそこにも光明があります。私たちは皆例外なく命であると同時に肉だから、必ず答えにたどり着ける筈です。

 

 

明確な答えが出せないなら、諦めて手を放すといいのかも。

 

 

あらゆる判断を手放してなおそこに残る何かが、命と肉の境界線です。

 

 

 

 

クリックしてくれるまで帰れま10!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

スポンサーリンク  

コメント

タイトルとURLをコピーしました