ポール・マッカートニーの菜食主義論に軌道修正のご提案

vegetarianism
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ポール・マッカートニーは言います。

「もし屠畜場がガラス張りであれば、誰もがベジタリアンになるであろう。」

 

ポール、本当にそうでしょうか?

私はほぼベジタリアンでありつつ、人間を含めたあらゆる生き物の殺害を、一定の条件のもとで受け入れています。だから尊敬する彼に反論してみます。

 

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屠畜を悪者と差別しないで

ポールの言い方だと、屠畜場で働く世界中の人たちが悲しむんじゃないですか?当事者には慣れっこでしょうが、彼らへの差別は今でも消えていません。

生き物を無自覚に扱うことより先に、食品を生産する人を批判するような言い方はズレていませんか?彼らは安全で美味しいお肉を社会に提供するために、努力をしてくれているのに。

 

畜産農家も悲しみます。彼らは豚や牛を”家畜として”愛しています。

最後は殺して食べるのだとしても、経済的な価値が最優先だとしても、必ずしも冷血に奴隷として扱っているわけではありません。ペットを愛でるのとは違った、別の形の愛情もあるんです。

家畜の健康を守っている獣医だって悲しみます。魚を捕ってくれている漁師も。害獣を駆除して活用してくれている猟師も。食文化を発展させてきた料理人も。法整備をした役人も。畜産の過程で出た糞を肥料に使う野菜農家も。

そんなつながりの上で、これまで肉食文化は育まれてきました。

 

ある程度の殺生は避けられない

世界にはまだ飢餓がはびこっています。アメリカのような大国でさえ、食べ物が余るようになってまだ100年程度。なお貧困層が多く残っています。途上国はもっとひどい。

つまり人間同士ですら助け合えていない、満足に養えていない段階です。菜食主義は贅沢な食事スタイルなので、ある程度豊かな社会に住む人間でないと、選択することすら困難です。

 

ちょっと昔までは、ほとんどの屠畜場はガラス張りでした。現在だって目の前で動物を捌いてくれる市場が世界中にあります。屠畜を残酷なだけだと捉えるのは、(あえてはっきり言えば)世間知らずのいい子ちゃんだけです。

屠畜は有史以来ずっと大切な仕事でした。残酷な側面があるのは確かながら、今後においても当分は求められます。

 

偏った動物愛護への抵抗感

屠畜場を無くせば、肉食獣たる猫は飼えなくなります。

かの国では神聖視されるクジラだけを守ると、代わりに大量の魚がクジラに食べられてしまうように。

命というのはつながっていて、境目のないものです。人間の好みでは制御しきれません。

 

世界の中心たる” 欧米 ”の菜食主義運動や動物愛護団体にはどこか独善性を感じます。知識のない人を感情的に煽って支配するやり方に見えるのは、文化的背景の違いなんでしょうか?

理性より感情に訴える方針はやむ負えないとはいえ、アカデミー賞をとった「THE COVE」なんかは残念でした。

 

全てを区別して支配する西洋的な感覚
全てを区別せず調和する東洋的な感覚

 

ここに疑問を感じる人が多いのが、日本人が極端な菜食主義に懐疑的な理由の一つです。そしてポールをはじめビートルズのメンバーは、西洋人でありながら東洋人的な価値観を持っていたはずなのに・・・。

 

 

屠畜場の見える化が必要な時代

でも屠畜上をガラス張りにするのは大賛成です。

少なくとも肉を食べる人、ペットを飼う人は全員が当事者ですから。

家畜の苦しみを減らす方針も賛成です。但し家畜は動物です。人間と同等にするのはまだ難しく、現実的な妥協点があります。動物の扱いは過酷な市場原理のもとに決められているのですから。私を含め実際に家畜を扱った経験のない人には、その辺が見えないのでしょう。

 

 

どうでしょうポール?

「みんなが菜食主義者に」は極端すぎると思いませんか?

その前に「みんなが動物や生命への理解を深める」を挟んで、肉食と菜食、ペットや家畜などの文化がストレスなく共存できる社会を目指しませんか?

きっとそれを自覚したからミートフリーマンデーにシフトチェンジしたのでしょう。当面はそれで充分だと思います。

反論以上。

 

 

必要なの死生観の深掘り

話は変わりますが、私にもガラス張りにしたいものがあります。それは命という概念に対する大きな誤解です。

命と呼ばれているものは、つながっていて境目がありません。実体なく流転し続け、誰かが保有したり支配できる類のものではありません。

私たちの肉体にしたって、ほとんどの機能は意識とは関わりなく、自動的に動いています。ひとりでに心臓は動き呼吸をしているように、意識でコントロールできる領域は案外少ない。眠ることすら意識の力ではできません。

 

更にその意識ですら、私たちはコントロールできません。してるつもりになっているだけ。

勝手に湧いてくる思考を止めることは不可能です。いわゆる禅や瞑想とは、それに気づき観察するための訓練です。思考というのは能動的に制御するのは不可能なので、受動的に収まるのを待つしかありません。

事実上、身体も心(思考)もコントロールできていないとすれば、一体どこに私の命はあるのでしょう?

 

誤解されてる生命の正体

私たちの日々の行動は、蓄積した無意識や習慣に支配されています。そして無意識や習慣は、生まれ育った文化や性格に支配されています。生まれ持った文化や性格を選んだ覚えのある人はいません。

仮にそれを選んだ不死の魂があったとしても、魂はいつ生まれたのか?と問いが繰り返されるだけです。どんな設定を作りどこまで遡っても、自分が生まれた瞬間にはたどり着けません。

 

ならば私は一体どこにいるのか?

今この瞬間感じている「わたし」という感覚はなんなのか?命は一体どこにあるのか?

 

つまり、人間は身体や心を支配しているのではありません。逆です。

身体や心に支配された操り人形が、私たち人間です。動物も植物も微生物も全てそう。そんな生物で溢れた世界を、いま私たちは生きているようです。

 

私たちが世界を生きているのではなく、世界が私たちを生きているのです。

 

 

菜食主義が流れ着く場所

肉を食べても、野菜を食べても、水を飲んでも、何かが私たちとして生きてるだけ。

ただそれだけです。

そこには誰もいません。(ビートルズの曲には似たメッセージが散見されます。)

 

そいつを思い出した上で好きなモノを食べる。当面はそれでOKです。

全員がベジタリアンになる必要などなく、生命への理解を深めていくことが次のステップではないでしょうか?

 

 

 

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コメント

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