「人体 神秘への挑戦展」は日々の食卓で開催されている

時事ネタ
この記事は約4分で読めます。

上野で開催中の「人体 神秘への挑戦展」に行ってきました。

 

神秘への挑戦だと?広告を見るたびに気になっていました。

あれ?でも神秘ってなんだったっけ?

 

OK Google!神秘ってなーに?

 

[名・形動]人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと。また、そのさま。

goo辞書より

 

そんなワクワクを求めて展示を眺めていたら、消化器官を解説するコーナーに、大体こんな意味の文章を見つけました。

 

「消化器官とは、口からお尻の穴まで繋がる通路である。この通路内は体の外側とつながっているから、身体の中にあっても体外といえる。

 

 

そっかー。確かにこれは屁理屈ではありませんね。

胃の中とか腸の中は、中身さえ入ってなければただの空洞です。ポータプル体外です。

 

 

食べ物は自分の身体ではないし、うんちも自分の身体ではありません。胃腸の壁から吸収された食べ物だけが身体と同化します。そしてようやく、自分の身体と呼んでいるものに変わるんですね。

 

だから、私の消化器官内の空洞は体内ではない。

つまり私の身体でもない。

 

 

 

食べ物の栄養素は胃腸の壁から吸収された後、血液やらに乗って身体中の細胞に運ばれます。細胞は自分の身体を織りなすものです。それに同化します。

食べたものって、一体いつ自分になったのか?と長年考えていた疑問が解けました。

 

そうか。胃腸の壁こそが、物質が命に切り変わる変異点だったのか。

 

 

 

いや待てよ?

血液をある程度失っても人は死にません。だから、胃腸の壁を通過して血液に溶け込んだくらいでは、まだ私とは呼べません。単なる栄養に過ぎません。

 

なら血液の栄養が細胞に供給されたら、晴れて私と呼べるのか?

あれ?違うな。

細胞の塊である腎臓を一つ抜きとっても、肝臓をおおかた切り取っても、まだ私は死にません。だから細胞=私でもありません。

 

 

 

じゃあもっと重要な細胞、例えば心臓なら?

移植が可能なパーツなのだから違うか。

 

 

 

じゃあ脳は?

脳死になっても延命できるんだから決定打ではありません。

 

 

 

 

よし、なら受精卵はどうだ?

たった一つの細胞なんだから、命があるのか無いのかはっきりしてるはずです。

 

 

あれ?受精する前からどっちも動いてる。

精子にも卵子にも命がないのだとしたら、何がそいつを動かしてるんだ?

 

 

 

私はどこにいるのだろう?
命はどこにあるのだろう?

 

私たちはどこからきた?

 

 

ここで一つ大きなツッコミがあります。

 

 

 

 

「人体 神秘への挑戦展」ってテーマだけど、そもそも人体ってどれだよ?

 

 

 

人体が定義できないなら、動物の身体も無理です。植物も微生物も無理です。

いま、こうやって頭を悩ませている”これ”は、命のひとカケラではないのでしょうか?

 

 

 

人体の神秘を理解する以前に、理解するための道具である意識そのものからして正体不明です。意識は目に見えないから、解剖したり展示したりもできませんし。

私はだあれ?

 

 

 

でも一つだけ確かなのは、人体はーー言い換えれば肉体は、食べ物にもなりうるということです。食肉だってことです。

 

血のソーセージ、こてっちゃん、羊の脳みそのカレーは(人体でこそないけれど)食べる神秘展なのです。動物の肉か植物の肉かの違いなど取るに足りません。

 

命と物質をつなぐ架け橋である肉。

肉を食べる時神秘はいつもすぐそこに。

何よりも近いのに、何よりも遠いここに。

 

神秘はいつも食卓の上に。

 

 

 

 

かつてアインシュタインは言いました。

「私たちの食べ方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように食べるか、すべてが奇跡であるかのように食べるかである。」

 

 

聞き間違えてないといいのですが。

 

 

 

 

 

 

二つしかない。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

スポンサーリンク  

コメント

タイトルとURLをコピーしました