上野で開催中の「人体 神秘への挑戦展」に行ってきました。
神秘への挑戦だと?広告を見るたびに気になっていました。
あれ?でも神秘ってなんだったっけ?
OK Google!神秘ってなーに?
goo辞書より
そんなワクワクを求めて展示を眺めていたら、消化器官を解説するコーナーに、大体こんな意味の文章を見つけました。
「消化器官とは、口からお尻の穴まで繋がる通路である。この通路内は体の外側とつながっているから、身体の中にあっても体外といえる。」
そっかー。確かにこれは屁理屈ではありませんね。
胃の中とか腸の中は、中身さえ入ってなければただの空洞です。ポータプル体外です。
食べ物は自分の身体ではないし、うんちも自分の身体ではありません。胃腸の壁から吸収された食べ物だけが身体と同化します。そしてようやく、自分の身体と呼んでいるものに変わるんですね。
だから、私の消化器官内の空洞は体内ではない。
つまり私の身体でもない。
食べ物の栄養素は胃腸の壁から吸収された後、血液やらに乗って身体中の細胞に運ばれます。細胞は自分の身体を織りなすものです。それに同化します。
食べたものって、一体いつ自分になったのか?と長年考えていた疑問が解けました。
そうか。胃腸の壁こそが、物質が命に切り変わる変異点だったのか。
いや待てよ?
血液をある程度失っても人は死にません。だから、胃腸の壁を通過して血液に溶け込んだくらいでは、まだ私とは呼べません。単なる栄養に過ぎません。
なら血液の栄養が細胞に供給されたら、晴れて私と呼べるのか?
あれ?違うな。
細胞の塊である腎臓を一つ抜きとっても、肝臓をおおかた切り取っても、まだ私は死にません。だから細胞=私でもありません。
じゃあもっと重要な細胞、例えば心臓なら?
移植が可能なパーツなのだから違うか。
じゃあ脳は?
脳死になっても延命できるんだから決定打ではありません。
よし、なら受精卵はどうだ?
たった一つの細胞なんだから、命があるのか無いのかはっきりしてるはずです。
あれ?受精する前からどっちも動いてる。
精子にも卵子にも命がないのだとしたら、何がそいつを動かしてるんだ?
私はどこにいるのだろう?
命はどこにあるのだろう?
私たちはどこからきた?
ここで一つ大きなツッコミがあります。
「人体 神秘への挑戦展」ってテーマだけど、そもそも人体ってどれだよ?
人体が定義できないなら、動物の身体も無理です。植物も微生物も無理です。
いま、こうやって頭を悩ませている”これ”は、命のひとカケラではないのでしょうか?
人体の神秘を理解する以前に、理解するための道具である意識そのものからして正体不明です。意識は目に見えないから、解剖したり展示したりもできませんし。
私はだあれ?
でも一つだけ確かなのは、人体はーー言い換えれば肉体は、食べ物にもなりうるということです。食肉だってことです。
血のソーセージ、こてっちゃん、羊の脳みそのカレーは(人体でこそないけれど)食べる神秘展なのです。動物の肉か植物の肉かの違いなど取るに足りません。
命と物質をつなぐ架け橋である肉。
肉を食べる時神秘はいつもすぐそこに。
何よりも近いのに、何よりも遠いここに。
神秘はいつも食卓の上に。
かつてアインシュタインは言いました。
「私たちの食べ方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように食べるか、すべてが奇跡であるかのように食べるかである。」
聞き間違えてないといいのですが。
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