いわゆる代用魚とは、不誠実なシロモノなのでしょうか?
代用魚とは、お寿司の名前をトロとしながらも、味や見た目の似たマグロ以外の魚を使うことです。消費者は食べても違いが分からず、情報で判断するしかないとすれば、食べる側にとっての問題は思い込みだけです。
(海洋資源の保全や表示偽装の是非など、経済的な問題はここでは考慮しません。)
先日友人と回転寿司へ行き、大好物のトロやアナゴをたらふく頂いてきました。私は素人ですから、代用魚と本物の違いなど区別できません。ネタの正体は気にせず、美味しい食事を楽しみました。
実際に食べていたのが本物であろうがなかろうが、私はあまり気にしません。別になんだってOKだと思っているからです。
偽装を許すという意味ではなく、食べてはいけないものなど無いと思っているからです。なんであっても想定内だからです。
そもそも食ものの正体を理解することは困難です。
ハンバーグなどのひき肉料理なら、別の肉が混入していても気づけません。ダンボールが入っていた事件もありましたっけ。化学調味料で出来たしょうゆだって、リアルな高い醤油と区別できません。(少なくとも私は)
プロの料理人なら見抜けるのだとしても、食材を細かく分解し、あるいは濃度を下げていけば、いずれは見抜けなくなります。極端な話、原子レベルまで分解してしまえば、原料がなにかなど誰にもわかりません。
食べて判別できる範囲に、五感の限界に依存します。それでも、多くの人は食べていい肉と、食材とはみなさない肉、というの区別を持っています。非常に事細かにルールを決めて。
ここに大きな矛盾が生まれます。
牛は食べてもOK。でも産地偽装のやつは嫌だ。だまされるのは悔しいから。
魚もOKだけど、代用魚は安っぽいから食べたくない。
カンガルーはどうだろう?考えたことないけど、オーストラリアを旅行した時になら、異文化として経験するのはOKかな?なんて。
また魚については、東日本大震災やスマトラ島沖地震が起きた直後は、周辺で採れた魚の売れ行きが悪化したそうです。被災した方の亡骸を食べた可能性があって、胃から出てくるかもしれないのはコワイからと。
気持ちは痛いほどよくわかりますし、犠牲者の方々には心から追悼を申し上げたいのですが、この認識は自然の摂理には適っていません。生命についての理解不足が原因で、大きな弊害を生み出しています。
野菜だって畑で分解された生物の死骸からできています。ネズミやスズメをしょっちゅう捕食している猫を、人は溺愛し特別扱いしています。結局はイメージの問題です。
それでも、食べているのは必ず何かの生命です。
それらは循環しながらつながっていて、境界線がありません。ここから先は人間の肉で、ここ以前は牛の命、という明確な定義が作れません。
定義がない以上、イメージと情報だけで判断するのは仕方ありません。だったら、せめて現実を直視したほうが良さそうです。日頃食べている肉たちが、どうやって育てられて、絞められて肉に変わって流通するのかを。
それらが常識として隠されなくなれば、生き物や食品をぞんざいに扱うことは減るのではないでしょうか。
犬猫の殺処分や大量の食品廃棄も解決に向かい、なによりも肉を食べつつも、絞める行為を見たくないというモヤモヤが解消されます。
ゆくゆくは、それが当たり前に公開され、受け入れられる社会になると思います。更に、世界各国で起きている、食のタブーによる文化摩擦も整理されていきます。
とか言ってるのを尻目に、人間以外の生き物は、食べられるものは全てさ食べます。食のタブーなどありません。
“食べる“という行為の原点を振り返れば、彼らの態度のほうが洗練されてたりして。
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