上野で開催されていた「人体 神秘への挑戦展」では、たくさんの臓器サンプルが展示されていました。
サルだのクジラだのゾウだのネズミだのの内臓がこれでもかと並べてあります。
但しヒトの内臓だけは扱いが異なり、奥まった場所に専用コーナーを設けて「見たい人だけ見てね」の作りになっていました。
イヤイヤ連れてこられた人への配慮なのでしょうか?私が見た限りでは、ほとんどの人が並んででも見ていました。こんな展示に来てるくらいですからね。
人の脳やら心臓やらを見たところで、素人には動物の内蔵と何か違うかわかりません。
「ふーん、こんな感じなんだ。」
で終わり。
隣にいた若い女性はこう言ってました。「ウケる!ホルモンみたい〜」
医療関係者でもなければ皆この程度でしょう。人の死体であっても、キチンと管理されたものなら怖くもなんともないわい。
しかしこの理屈を覆した事例があります。
少し前に話題になった「人体の不思議展」という名前のよく似た催しです。
プラティネーションという新技術を駆使した標本を売りにしており、人体の毛細血管をつぶさに観察できたようです。
この展示、当初は大好評で客足もよかったのですが、後に重大な倫理違反が発覚し閉鎖されました。
献体の出処が不透明な上に、献体がまだ生きてる状態で措置しないと実現できない、つまり意図的に殺めた標本であることがバレたためです。
さて、同じ人間の死体の展示だったのに、献体が作られた過程が残酷だとわかった途端に拒絶反応がでたわけです。
展示物の見た目よりも、作り手の背景が批判を受けたんですね。まぁ当然です。
この2つの事例から学べる倫理観は、
社会は人間の死体を見世物とすること自体は問題としない。
但し、それは献体が人権侵害や不正な苦しみを受けていない場合に限る。もし残酷な手法で作られた献体なら認めない。
ってとこです。
ヒトの死体そのものは悪でも罪でもないが、人に苦しみや悲しみを与えることは不正義かつ違法だと。
比較的わかりやすい判断です。
ところで、なぜこの理論は動物には適応されないのでしょうか。
現在、市場に出回っている食肉の多くは、家畜を苦しめまくって生産したシロモノです。
彼らは飼料を肉に変換するための機械としかみなされず、拷問のような一生を送ります。それはひとえに、食卓に肉を届けるためにです。
その事実はうまく隠されてきましたし、公開されてからも見てみぬふりをされ続けています。
家畜は牧場を自由に歩き回って、自由に生を楽しんだ過ごした後に、絞められる最後の一瞬だけ苦しんで肉になる、、、
と思い込まされてる人がまだ多くいますが、真実は違います。
おや?さっきの倫理観はどこいった?
ということで、屠畜の映像でも貼っときます。知らない人がたくさんいるから。
家畜は苦しめてもいいが、犬や猫が虐待されれは大騒ぎ。
問題は種なのでしょうか?
もしおいしい肉を食べ続けたいのなら、この問題を解決するしかありません。
でないと鬱陶しい動物愛護団体のデモを見続けることになります。彼らは決して諦めないでしょうから。
肉を食うなとか菜食主義者になれとかじゃなくて、現実を知った上で食べること。
すると今まで以上に美味しく食事を楽しめますよ。
正しい動機で設置されてます。
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