「葉っぱのフレディ」を読んで悟る事。日々の食事もフレディなんだ。

人間の認識について
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昔大好きだった哲学の本「ソフィーの世界」を読み返してたら、ある神秘家の言葉が目に留まりました。

「私だったとき神はいなかった。今は神がいて、わたしはもういない。」

 

葉っぱのフレディという有名な絵本も、このテーマを表現した作品です。(著者は哲学者)

中2の時はこの表現にロマンを覚えたものですが、今はこう思います。

 

神秘でもなんでもなくて、ただの観察報告じゃん。

というのもですね、こないだイカを食べたんですよ。ヒイカっていう手のひらサイズの可愛いイカ。友人と釣りに行って、釣ったその場で捌いて食べました。

 

釣り上げーの、

スミ吐かせーの、

捌いて食べーの。

 

友人には苦笑いされましたが、どうしても釣ったその場で食べてみたかった。

ヒイカなんて買っちゃえば5匹で150円。しかし釣って即座に食べる体験はプライスレス。一介の獣に戻った気分です。

 

友人が釣ったマトウダイも頂きました(帰宅後に)。

珍味のキモは少し茹でてから、

すりつぶして醤油と混ぜて刺し身のタレにて食べると最高です。

その刺身とキモのシナジーは・・まるで鮮魚のM1チャンピオンやー!!!

もはやこの世のものとは思えない美味しさ!(実際死んでるし)

 

 

一晩寝かせたヒラメも最高です。

う、、う、、

 

、、うまい。

よくフェイクミートを食べるんですけど、やはり本物とは比較になりませんね。

完璧なバランスの甘さと淡白さ、それでいて適度な噛みごたえと旨味のハーモニー。まるで味覚の中盤を支配するイニエスタや〜。

 

 

グルメレポートはこの位にして、

もし私に食べられたイカがこう発言したら、どう思いますか?

イカだったときヒトはいなかった。今はヒトがいて、イカはもういない。」

 

 

当たり前じゃん。イカは私に食べられたんだから。

次に、いつの日か私が火葬され骨になったとしましょう。さぁ私はどこにいったのか?

 

「私だったときも骨はいたけど意識してなかった。今は骨だけがいて、私はもういない」

 

やっぱ当たり前のことを言ってるだけですね。

というか別に食べられたり死ぬのを待つ必要はなく、すでに今この瞬間、私は骨です。イカです。イカも骨も私も永久にそのままではいられないから、徐々に姿を変えるのは当然です。肉体も精神も全部。

 

だから冒頭の言葉は、ある状態が消えたあとに残ってる何かを、仰々しくカミサマと呼んでいるに過ぎないんです。

別に日常茶飯事だし。なんで神秘なんだ?むしろそれに気づかず生きてきたことの方が神秘じゃねえの?

そもそも神とか言うからキモイんだよ。私ならフレディと名付けます。

 

 

絵本「葉っぱのフレディ」では、葉っぱだったときは自分とその周りしか見えなかったフレディも、落ち葉になってから木の全体像を見上げた時、自分は木の一部に過ぎなかったのだ、と悟ります。「しずくのぼうけん」もかなり近い。

どっちも幼児からお年寄りまで楽しめる優れた作品です。こんなに易しく豊かな表現があるんだから、もう神秘家などお呼びじゃない。そういえばQueenのフレディも最近蘇りました。今必要なのはシンピカではなく、大衆に訴える力を持つスターです。

 

私たちは海に住むヌルヌルをイカと呼び、それを食べるこの身体をヒトと呼びます。しかし食べてしまえば対象との距離はもはやゼロ。消えてしまいます。

食って食われてが生物の宿命ならば、それを堂々と受け止めればいい。イカだけじゃなくて牛とか豚も。どうせ全部フレディなんだから。

 

ちなみに、世の中には知らなかった方が幸せなこともあります。

あとで聞いたんです。生食したイカを釣ったポイントは河川が海に流れ込む場所だから、よく釣れる代わりに汚水が流れ込んでいたかもと。

 

 

 

 

 

_| ̄|○     「今はクソまみれの水がいて、私はもういない。」 

 

生食は自己責任でな!寄生虫にも要注意な!

 

 

 

Anyway the wind blows.

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アイキャッチ画像:Mabel Amber, still incognito…によるPixabayからの画像

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