不気味の谷はロボットよりも、ハム原木の方がわかりやすい

人間の認識について
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不気味の谷現象とはロボットの見た目が人間に近づく過程で、気持ち悪く見えるポイントが出現し、更に見た目が人間に近づくと消えるという経験則です。証拠の乏しいエセ科学と呼ぶ声も。

2015/11/06 WIRED ロボットが人間に嫌われる「不気味の谷」が証明される

 

この話の説明にはロボットより食肉のほうがわかりやすいです。

 

違う観点から言うと、私たちは食肉や生物と頻繁に接しているのに、生物を非生物を跨ぐポイントが巧妙に隠された世界に生きていることが実感できるはずです。

具体例として、美味しいハムが豚に戻っていく過程を振り返ります。

 

ハムの製造工程を逆再生

見慣れた姿のハムです。おいしそうでしょ?

 

不気味の谷のグラフで言うと、今はこの辺でしょうか。好感度MAX。

 

徐々に時間を巻き戻します。

 

スペイン産のハモンセラーノの原木をスライス中。

 

パック売りされている薄いハムが、こんな風に削りだされているのは案外知られていません。

表面の皮と油の層を切り取ると、熟成したお肉が顔を出します。

 

ハムの原木を専用台座にセットした所です。

 

もう見た目はまるっきり足です。初めて見た友人はこう言いました。

「( ゚Д゚) 机の上に足がある・・・。」

 

 

 

それな。初めてだとビックリしますよね。

たまにレストランとかにも置いてあって、オブジェとしてカッコイイと言う人もいるから面白いですね、

 

開封直後です。重さ8kg程のタイプ。

 

到着後に1~2日温度になじませたあと、オリーブオイルで表面のカビを落としていきます。

 

 

紛れもなく美味しいハムの塊なんですけど、もはや足にしか見えません。

徐々に好感度が下がってきた頃でしょうか。

 

 

 

・・そして豚を絞めます。ここが間違いなく「不気味の谷」です。

おいしい食肉とかわいい動物を隔てる大きな谷である「死」。

 

私たちそれを跨ぐ瞬間を見ると、「これは生物なのか?物体なのか?」と認識に戸惑ってしまいます。

 

(写真は刺激が強いので載せません。見たい人はググってね。)

 

 

そして生きてる豚です。

かわいいですか?おいしそうですか?

 

好感度も復活です。豚は紛れもなく生物だから。見てて安心できるから。

 

 

不気味の谷の本質は気のせい?

 

さて、不気味の谷現象というのは要するに、

「認識できないもの、理解できないものは怖がるように」という本能的な防御反応でしょうか。生物と非生物の間を跨ぐポイントには、認識の盲点があるようです。

 

というのも、人間の脳はなんでも分類したがるからです。

 

( ゚Д゚) 「机の上に足がある・・?」

( ゚Д゚) 「ハムが足の形をしている・・?」

( ゚Д゚) 「っていうかハムって豚だったの・・?」

 

そして「足」、「ハム」、「豚」は本来同じものであることを忘れて、どれか一つに落ち着かせようと無意識に決めつけたがります。

 

 

これは考えてみればおかしな話です。私たちは最初から知っていたはずです。

ハムは豚だったことも、精巧なロボットが機械であることも。

 

なのにその境界線が曖昧な物体を見ると気持ち悪くなります。

それがなんなのか、よくわからないから。

 

 

人間みたいなロボットに戸惑うのは仕方ないとして、食肉がかつて動物だったことを認めたくないというのは如何なものか。

カワイイ動物達の動画が流行っている昨今、動物好きならそのあたりも思い出さなきゃね。

 

それは悪趣味ではなく、愛とか礼儀の類だと思うので。

 

ハムとブタのあいだ

よくSF映画で「進化したロボットは人間になれるのか?」って文脈で語られることが多いこのテーマ、反転して「生物を分解したら物質に戻れるのか?」にしても同じことです。

結局のところ、「生命と非生命を隔てる定義」が科学的にも感覚的にも定められない。でも決めないと本能的に落ち着かない。だから気持ち悪い。(これは菜食主義の限界でもあり、同時に突破口でもあります。)

 

それを決めつけようとするクセこそが不気味の谷現象の本質です。

そいつ諦めて、万物は繋がっていることを思い出せれば、不気味の谷はきれいさっぱり消えてなくなります。

 

 

人間は勝手なものです。

ロボットを生物に似せて作るのはロマンなのに、かつて生物だった食肉を食べる際には、生物っぽさを隠すがマナーときてやがる。食べる時にキモチワルイからって。一体どっちが好きなんだよ。

これも概念が分断されているせいで支障がでている例です。

 

人間の脳みそは、とにかく物事を分類したがります。

「ここは私の家だ。東京だ。日本だ。アジアだ。地球だ。天の川銀河だ。」

本当はただ一つの大きな空間があるだけなのにね。

 

「これは豚だ、豚の死体だ、不気味な豚足だ、おいしいハムだ。」

「これはロボットだ、人間によく似たロボットだ、生身の人間だ」」

 

本当は一つの何かがあるだけなのにね。

別に分類するのはいいんですけど。便宜上だと忘れなければ。本質ではなく後付けの概念だと忘れなければ。

なお、一定年齢以下の子どもは不気味の谷を感じないという話があるそうです、本当だとしたら、後天的に学習した分別力が仇になっている証拠かもですね。

 

 

不気味の谷の跨ぎ方

 

結局のところ、不気味の谷は蜃気楼です。

つまり生物と非生物に決定的な違いは見出せません。少なくとも今のところは。

 

細胞内では創造と破壊が同時に繰り返されているし、非生物である物質と生物である細胞は絶えず交わりあって循環しています。決して止まれない存在です。

実際には物事に境界線などなく、全てはゆるやかに繋がっていて、常に変化し続けています。

 

「( ゚Д゚) つまり私と豚と世界は、ゆるやかにつながっている・・・?」

確固たる定義などナンセンス。呼び名と本質は別物です。

 

一言で要約すれば「諸行無常」

オネェ風に言えば、「まぼろし~!」

 

 

 

 

てやんでい

 

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