「山月記」を深く理解するには、李徴の気持ちで食事をしてみよう

動物との付き合い方
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中島敦「山月記」の” 臆病な自尊心と尊大な羞恥心 ”は、李徴や一部のこじらせ君に限った症状ではありません。

現代の日本人の9割は当てはまります。

 

ペット大好き!肉食べるの大好き!でも動物を殺すのは嫌!

な人は全員そうです。

 

私たちの臆病な自尊心

動物を支配して食べるのは当然だ。私たちは人間サマなのだから。

自分を特別な存在だと信じて疑わない一方で、動物を殺すことに少し罪悪感を感じている。毎日当たり前に動物を食べるが、毎日当たり前に動物を殺すのは嫌だ。

妙に高いプライドを持つ反面、それを肯定しきる覚悟はない。

 

私たちの尊大な羞恥心

実は人間サマは特別な存在ではないのでは?

会社や学校で奴隷のように扱われてる自分を嘆くけれど、更に弱い動物を搾取している現実がある。それを見つめるのは不都合だ。恥ずかしい。

よし、この話は黙殺しよう。幸い問題も起きないし。

 

 

現代人と李徴の悩みのコントラスト

山月記の李徴は、初めて虎になった時を振り返り、こう言っています。

「その時、眼の前を一匹のウサギが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。」
「その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤おろしい。」

 

つまり李徴は

虎としてウサギを喰い殺すことを受け入れきれない」

対象的に現代人は

ヒトとして家畜を殺し喰うことを受け入れきれない」

 

どっちも大差ないと思うのだけれど・・。李徴は何がひっかかっているのだろう?虎としては自然な行いなのに。まさか遠回しに現代人を皮肉ってるんでしょうか?

 

 

人間は長い年月をかけて高度な家畜供給システムを作り上げたのに、90%の人はその現場を見て見ぬふりしています。見たくねえからって。肉だけ食えればいいからって。

挙句の果てに、その振る舞いを「人間としての自然な行い」と思ってる始末です。

 

李徴は考えすぎ。現代人は考えなさすぎ。

ではないでしょうか?

 

ウサギは世界中で食べられてます。

 

 

濡れ衣を着せられた猛虎

李徴はこうも言います。

「人間はだれもが猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

 

って?

コントロールの効かない猛獣という意味で虎なのでしょうが、現実の虎はこの悩みとは(たぶん)無縁です。虎はあるがままに生きていて、あれこれ自意識をこじらせません。

群れを作らずに単独で生活するので、自分と他者を比較する必要もありません。自由気ままです。

 

「尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

これは人間目線の比喩に過ぎません。虎は羞恥心で苦しんでいないから。

李徴はさっさと虎になっちゃえばいい。

 

なに悩んでんの?

 

 

自意識過剰で悩むくらいなら、獰猛なヒトに戻ればいい

自意識過剰が過ぎて内なる虎に乗っ取られた李徴。

私たちは大丈夫でしょうか?

 

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は青年期特有の症状ではなく、人間が一生かかっても解決できない自意識の壁です。

ダーウィンの進化論が発表された際、当時の知識人たち、特にキリスト教の権力者が頑なに認めようとしなかったように。現代人がペット文化と肉食文化の間で揺れるように。

既得権益が崩れ、甘い汁(旨い肉)を吸えなくなるのは困りますもんね。

 

私たちにしたって、このままだと後世の人に笑われる可能性大です。だからせめて、肉を食べることの意味ぐらいは思い出したいところです。

それを拒んで虎になるとかほざいてるくらいなら、こっちから望んで獰猛なヒトに戻ればいい。

 

狩猟で捕ったイノシシを解体開始してるシーンです。

 

 

あるいは、菜食主義でも不自由しない社会にすればいい。

菜食主義と肉食文化が無理なく共存し、互いに尊重し合える社会になった暁には・・

私たちは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を乗り越えたと言ってよさそうです。

 

 

 

臆病なバナー、尊大なスルー

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