「保育園落ちた日本死ね」との表現を巡って論争がありました。
ユーキャン新語・流行語大賞2016のTOP10なるものに選ばれた際、「死ね」という言葉は公には不適切だ!いや鋭い表現だ!と揉めた話です。
言葉狩りの根本原因は死という現象が誤解されている点にあります。
「死ね」に不快感を感じる方も感じない方も、死というのは本当は何なのかを深く考えたことがありますか?
なければ一度捉え直してみてはいかがでしょうか。「死ね」とか「殺す」という言葉が独り歩きするのを解決するには、死生観の理解を深めるのが一番です。
「死ね」は汚いだけの言葉じゃない。解釈の問題。
審査員の一人だった俵万智さんのコメントです。個人的には同意見です。
「死ね」が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました。お母さんが、こんな言葉を遣わなくていい社会になってほしいし、日本という国も日本語も、心から愛しています。
— 俵万智 (@tawara_machi) 2016年12月10日
確かに刺さりました。表現が汚いことも含め優れた表現だったと思います。そしてこの「死ね」にまるで不快感を感じない理由は、悪意のない悲痛な叫びだからだと捉えています。
問題は「死ね」じゃなくて、動機というか意図だと思うんですよね。言霊だかなんだか知らんけど、言葉は手段であって目的ではない。字面であって気持ちではない。
「それは月を指差すようなものだ。」
「指に捉われていては、その先の栄光を得られないぞ」
ブルース・リーの他にも、ザ・パンチがあるべき姿を示してくれています。
「(お願い)死んでー!」ってツッコミが看板。しかしパターンは無限です。
「(お願い)違う血液型輸血してー!」「消防車のホースでウォシュレットしてー!」
言いたいことは全部一緒。彼らがTVに出なくなった理由が「死んでー」の不謹慎さとの説がありますが、だとしたら、
「(お願い)帰ってきてー!」「普段から動物を食べてるのに、見て見ぬふりしてるの辞めさせてー!」
暗殺教室という漫画だって「死ね」や「殺す」のオンパレード。それでいて教育モノとして大ヒットしました。実際すごく面白い。
特筆すべきは、この漫画には「中学生が山からキジや魚や獲る(殺す)シーンすらあります。しかも生態系を乱さない程度に範囲を限定して。
「殺す」に怒り狂う大人達の大部分がこれを理解できてない皮肉。これ10代がメインターゲットの漫画だよ?「殺す」って言うなとか寒いことやらないで、逆に殺させることで若者を教育する話だよ?
とにかく「殺す」とか「死ね」の言葉自体が問題である筈がない。言葉狩りはどうでもいいから、死の驚くべき身近さを思い出してほしいです。
葬式のお経では「そもそも死ねるような実体はない。」と言ってるよ。
暗殺教室という漫画には、こんなセリフが出てきます。
「殺そうとしたことなんて無いくせに。」
「ねぇ殺すってどういうことか、本当にわかってる?」
お葬式で読まれるお経は、こんな内容だったりします。
「私たちは死ぬことなどないし、死なないということもない。」
「私たちはキレイにはならない、汚くもならない。増えることはない、減ることもない」
暗殺教室はともかく、お経は聞いたことがある筈なんですよ。大抵の人は。
だからもったいないよね。伝統ある文化であって、触れる機会も確保されている、価値のある情報だというのに、全然伝わってないなんて。
「保育園落ちた日本死ね」も社会問題だけど、「葬式高いし意味不明だ坊主死ね」も流行語にノミネートされかねません。だから素人なりに少しでも伝えたいんです。
別に難しい話ではなくて、
「自分だと思ってるものは実は気のせいで、死というのも本当は存在しないよ。」
「世界と君は一つの存在なんだから、力を抜けばいいじゃん?」
と言ってるだけなんですけどね。
これを実感するための材料としては、例えば日々の食事がおススメです。これ以上ないほどに身近で、これ以上ないほど五感をフルに使って腑に落とすから。「死」というのは極めて日常的な現象だから。動物でできるなら、人間にでもできる筈だから。
死は生と表裏一体で区別ができません。今この瞬間も、目の前より前にあるものです。さっき食べたソーセージが、もはや自分と区別できないのと同じです。
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mohamed HassanによるPixabayからの画像
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