「やがて、いのちに変わるもの」ではなくて最初から「いのち」だよ。

食の思い込み
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「やがて、いのちに変わるもの。」

かのミツカンさんのグループビジョン・スローガンです。秀逸なコピーのお手本として、よく広告の本でも紹介されています。

この文言、少し気になるというか、補足したくなってしまう部分があります。

 

ミツカンさんのHPより引用

食べものとは、そんなすばらしい人間の、一日一日をつくっているのです。こんこんと湧き出す、いのちのもとをつくっているのですね。私たちがいつも胸に刻み、大切にしているのは、その想いなのです。

これは「食べもの」と「いのち」を逆にしても成り立ちます。

いのちとは、そんなすばらしい人間の、一日一日をつくっているのです。こんこんと湧き出す、食べもののもとをつくっているのですね。私たちがいつも胸に刻み、大切にしているのは、その想いなのです。

いのち→食べもの→いのち→食べもの→∞

いのち=食べ物

 

この連続性や循環性がもっと浸透すれば面白いのに。

なぜなら「食べもの」と「いのち」が別々のモノだと勘違いしている人が多くて、その解釈の違いでケンカになるケースが増えてきたから。

生命を原料に作る食品を「確固たる実体」ではなく「移りゆくもの」と捉える視点を表現していくことが、今後の食品企業には求められてくると思うから。

 

そしてこの部分。

「私たちがいつも胸に刻み、大切にしているのは、その想いなのです。」

僧侶もたぶんそんな感じです。ミツカンさんは僧侶的な企業グループと言えそうです。

「我々はいのちじゃないとでも?」

 

 

更につっこむと、どうやら「いのち」は不可算名詞です。種芋は分割して植えても、それぞれに芽が生えるようなものです。

そして何が「いのち」の定義なのかは、生物学者たちもよくわからんと口を揃えます。

それは解釈の問題です。

同じく何が「食べもの」なのかも、個人や文化ごとにバッラバラ。

やはり解釈の問題です。

 

つまり「いのち」も「食べもの」も実体がつかめないので、あるのはただ解釈だけ。

こいつは困りました。心に刺さるスローガンだったのに、捉えどころがなくなってしまった。

 

 

ああ、もう面倒くさい。

どうせ区別できないのなら、全部「いのち」に統一しちゃおう。

というのが抜本的な対策となります。(大雑把だけど)禅的な視点です。

「衆生(生きとし生けるものは)本来仏なり」ってね。これが理解されれば、世界中の食のタブー問題は一歩前進する筈です。

 

これからの時代、大手の食品企業がイニシアティブを取ってくれると助かります。仮に外国企業に技術開発やブランディングで負けたとしても、こうした食育分野をリードするのは日本の企業であって欲しいです。

文化的にも気質的にも日本人にはその資質があります。それを世界に発信するに相応しい立場だと信じています。

 

 

やがて、ランキングに変わるもの

 

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

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