映画「ヒメアノ~ル」がもっともっと怖くなる視点をシェアしたい。

人間の認識について
この記事は約13分で読めます。

邦画「ヒメアノ~ル」のレビューです。原作は読んでません。

(※ネタバレ満載です。嫌な方は見ないでね。)

 

この映画、サイコパスについて調べてる時に鑑賞したのですが、とても優れた作品です。

何気ない日常会話、脱力コメディ、妄想的エロス、リアルなバイオレンス、悲しいヒューマンドラマが効果的に配置されていて、その対比が映えるようにできてます。主演の森田剛もハマリ役。

 

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真の恐怖は映画ではなく自分自身

作品のキャッチコピーは「めんどくさいから殺していい?」

 

 

そんなサイコ野郎に恐怖する作品なんですけど、実は私たちも実行犯なんですよね。相手が人間じゃなければ。

つまり動物であれば、いや、場合によっては人間であっても。

 

この映画からでわかることは、真のサイコは自分がサイコである自覚がないこと。自分のことは棚に上げ、他者を怖がれる感覚です。

説明していきます。

 

 

題名「ヒメアノ~ル」の由来

ヒメアノールとはヒメトカゲという爬虫類のことで、体長10cmほどで猛禽類のエサにもなる種だそうです。強者の餌となる弱者を暗示しており、その強弱の立場の入れ替わりが映画のキモです。

※写真はヒメトカゲではなくカメレオンです。

 

個人的には「そのコントラストを通して、自分自身やサイコパスについて見つめて欲しい」という意図を感じますサイコキラーをただの悪人と描かなかった点からも明らかです。私も同じ主題で記事を書きます。

 

 

ヒメノアールの怖さを倍増させる視点

この作品は二部構成になっていて、

①牧歌的な日常や恋愛を描く前半 ②血みどろな暴力満載の後半

に区分けされます。そしてその中間に「HIMEANOLE」と不穏な雰囲気でタイトルが挿入され、作風がガラッと変わる合図があります。その境目の直後のシーンがこれ。

 

①セックスと殺人を交互に見せるシーン

ユカの部屋から漏れてくる喘ぎ声を聞き、森田は彼女を殺そう決意し、弱みを握る和草に協力を呼びかける。ところが和草は、婚約者の久美子と共に森田を殺すために乗り込んできた。もうこれ以上脅されないために。しかし揉み合いの末、和草を返り討ちにした森田。そして久美子に歩み寄る。

 

 

久美子を鈍器で殴打しまくる森田。

その頃ユカに腰を振りまくる岡田。

恐怖だかダメージだかで失禁する久美子。

幸せそうに喘ぐユカ。

 

異なる棒を振りまくる岡田森田

イッた岡田。逝かした森田。別々の意味で昇天したユカ久美子

精液をぶちまけたコンドームを、丸めてゴミ箱に投げる岡田。

灯油をぶちまけた死体に、燃えるチリ紙を投げる森田。

 

 

シフトチェンジであるこの場面、一気に引き込まれます。

サイコキラーは殺害衝動と性的衝動がリンクしているケースがあり、ハッキリとは描写されていないものの、本作の森田にもそのニオイが感じられます。

 

 

初めての殺人の際、絞め殺したいじめっ子の死体を前に自慰をしたのは、それが理由なのか?あるいは、みんなの前で自慰を強制されられた件への報復だったのか?

受け手の解釈に委ねられてますが、どちらにしても私たちはそれを恐れます。サイコな振る舞いだとビビります。

 

 

ここでセックスを食事、殺人を屠畜に置き換えて、対象を人間から動物に変えると・・?

あら不思議。私たちの食卓そのものです。

 

 

サイコキラーは殺害衝動と性的衝動がリンクしています。私たちは屠畜と美味しいステーキがリンクしていません。

サイコキラーは人を殺しながら、性的に興奮できるから恐い。私たちは動物を殺せないくせに、ステーキで食欲を興奮させられるから恐い。

 

どちらも日常です。サイコの殺人も私たちの屠畜無視も。

家畜を絞める際は電気銃を撃ち、気絶をさせてから絶命させます。その成果物である美味しい食肉を食べて昇天します。そして食べ残しは燃えるゴミ。

 

サイコなのは森田なのか、私たちなのか?

別記事も参照 → 映画「肉が焼ける」は「いのちの食べかた」と同時に観れば傑作になる

 

 

②レイプ殺人→食事→殺人→食事のシーン

侵入宅の女性を犯して殺した後、用意してあったカレーを食べる森田。彼女の夫が帰宅すると、事務的にめった刺しにして殺し、またすぐにカレーを食べ始める。

 

この描写も背筋が凍ります。お腹がすいたらご飯を食べる感覚で、邪魔になったら人を殺すサイコ。

 

 

・・しかし、カレーに牛や豚が使われていることを、一体どれだけの人が自覚しているのでしょうか?

結果として森田と同じサイコになってる人が多い。

 

③レイプしようとした女性が生理中だったシーン

これをリアルに描いた映画は初めて見ました。

でも考えれみれば当然です。普通の哺乳類なんだから。

 

なお、いつも食べてる家畜を殖やす際の種付けは、レイプに近いものがあります。当然です。普通の生物なんだから。

 

④チンピラにカツアゲされたシーン

パチンコに大勝ちした森田がカツアゲを受けた際、チャチなカッターで応戦する姿勢をみせますが、結果的にはボコられてます。しかも報復する気配もない。

森田が能動的に襲った相手は弱い女性、もしくは不意打ち、あとは銃を持っていたときだけです。強い相手には逆らわず、弱い相手や勝てる状況の場合だけ殺す。

 

 

つまり彼は本来弱い人間なんです。頭が悪いから殺し方も手際が悪い。殺しが快楽だといっても、リスクは決して負わない姿勢です。

自分が襲われる立場にもなりうることを、きちんと理解している。この点はマトモな神経です。扱いやすい家畜だけを支配して、強くなったと勘違いしている私たちよりは。

 

⑤バレバレの嘘をつきまくるシーン

サイコパスにはウソに対する抵抗の無さという特徴があります。賢いサイコはそれを巧妙に隠す力があるものですが、森田の場合は知能が低いためバレバレです。路上たばこを注意されたシーンとか、安藤をずっとキモイと思っていたと言い、即座に撤回するシーンとか。

 

都合が悪いことは支離滅裂に捻じ曲げて、自分自身をも平気で騙す。

 

・・これは「家畜を殺さないと肉を食べられないこと」と指摘された多くの人の反応とソックリです。

 

⑥結婚のために殺しを正当化するシーン

和草が森田との殺人を自首しようとした際、婚約者である久美子は土壇場になって「二人で森田を殺して、幸せになろう」と提案します。

自首する寸前まで決断しなかった理由は、理性では自首が正しいとわかっていたからです。それでいて、結婚のチャンスをフイにすることが耐えられなかった。ならば邪魔者を殺してしまえ、という訳です。

 

 

久美子はあまり魅力的ではない女性として描かれています。いかにも結婚のチャンスが少なそうな。よってこの発言が自然に見えます。

結局の所、自分の幸せに大きな影響がある場合には、悪事を受ける入れるのが人間の本音です。善悪を都合よく解釈するものです。

 

 

だというのに覚悟が甘い。森田を殺せなかったのは、明らかな準備不足と知識不足からです。

粗大ごみを纏めるようなヒモと、バット一本で殺しにいく愚かっぷり。手順もグダグダ。もう少し考えろよ。

 

・・これはまるで、家畜を殺すことを肯定しつつも、いざという時に実行できない人のようです。殺したことなんてないもんだから、現実を全くわかってない。甘すぎる。

 

 
でも救いの要素もあるよ!!

これだけ書くと、どんだけ適当に肉を食べてる人が嫌いなんだ?と思うかもしれません。しかしこの作品では希望も描かれています。

 

⑦森田がサイコに分裂したのはイジメられたせい

森田は高校時代のイジメがもとで精神が分裂してしまった描写があります。
これは生まれついてのサイコなどいない、という監督の希望であるらしく。

 

私たちも同じです。幼少期から「家畜と食肉は別」と洗脳を受けてしまったせいで、いま苦しんでいます。結果として、多くの人間は肉食に対してサイコに教育されてしまいました。

一昔の人間にとっては、家畜の解体ぐらい日常茶飯事だったのに。その知識や体験さえシェアされれば、誰もサイコにならずに済んだのに。

 

 

「家畜を食べるのは仕方ない、経済動物なんだから問題ない。」

同感です。でも本当にそう思っているのなら、屠畜を直視することも嫌じゃない筈です。そうでないなら嘘である証拠。

 

 

森田へのイジメを見て見ぬふりをしたせいで、それを気に病んでいた岡田。

社会にイジメられ屠畜を教わらなかったせいで、それを気に病んでいる現代人。

 

イジメを無くせば、どちらも解決します。

 

⑧森田は人は殺せても、犬は殺せなかった

これはいいラストシーンでした。

森田は車での逃亡中に、犬を轢くのを避けようとして電柱に激突します。その直前に、死体の頭を思いっきり轢くシーンがあるにもかかわらず。

 

そのショックでイジメられる前の意識が戻り、岡田に借りたゲームを返そうとする森田。きっと当時の彼は、犬を可愛がる普通の少年だったのでしょう。

人を何食わぬ顔で殺しまくる森田だって、もし若い頃にイジメを受けていなければ・・・。

 

 

 

映画「ヒメアノ~ル」は、殺人やレイプなどの非日常的な悲劇と、日常的な(ダメ男の)恋愛ドラマが上手にサンドイッチされた作品です。

そして安藤と森田は対になるものとして表現されています。安藤の残念なキモさと、森田の哀しい残酷さは、どちらも純粋で愚かであり、どこか憎めない背景を抱えています。

 

 

私たち現代人は、安藤と森田が同居したような存在です。

シリアルキラーと化した森田でさえ、まだ犬に対する優しさが残っていました。私たちに解決できないはずがありません。

 

 

 

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