本当は怖い「ニーバーの祈り」。祈っているのは私か?それとも神か?

人間の認識について
この記事は約6分で読めます。

有名な「二ーバーの祈り」の筆者なりの解説です。

これは人間が神に祈っている詩とされています。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

 

変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ?

そもそも、人間は「自分」と「それ以外」を区別することすらできないというにに?

 

自分とは身体なのか?心なのか?魂なのか?心臓が止まったら死か?脳死は死か?そもそも自由意志なんてあるのか?

そのあたりを理解すると、ニーバーの祈りはさらにスリリングになります。

 

それは神のみぞ知るところ

 

「自分」とは何なのか、解明した人は歴史上1人もいません。

それは神のみぞ知るところです。

 

あれ?じゃあ結局「神のみぞ知る存在が、神自身に祈ってる構図」になりませんか?

 

人間が全てを知りえない以上、結局は神に委ねるしかない部分が残ります。

もし全てを知った人間がいれば、それはもはや神です。

 

つまり、どう転んでもこの構図から抜けられません。ニーバーの祈りとは、東洋でいう梵我一如を表現した詩なのかもしれません。あなたと神は実は一人ですよって。

 

エッセンスは気持ちの切り替え

この祈りを要約すれば、「気持ちを切り替えろ!」ってとこでしょうか。

クヨクヨせずに今できることにフォーカスしろと。昔よくサッカーの先輩に言われた気がします。

 

この詩はとても有名で、影響を受けたと公言する人も多いというのに、引用される際はなぜか冒頭部のだけに留まり、肝心の後半が抜けてることが多いです。もったいないことです。

この詩は日常的な悩みの解決に留まらず、もっとスケールの大きな思想です。

 

読み込んでいくと①まず感動し、②次に恐怖を感じ、③最後には極上の安心感を得られるかと思います。その辺を東洋的な視点で解釈してみます。

 

誰が神に祈るの?

この祈り文句を作ったとされる二ーバー氏、彼は一体誰なんでしょうか?

というか、私たちは一体誰なんでしょうか?身体なのか?心なのか?魂なのか?あるいは全部違うのか。実は誰も知りません。

 

 

私たちの身体は勝手に太ったり老いたりするし、毎日食事を与え、トイレに連れいき、寝かしつけてやらないといけません。いわば大きな赤ん坊です。

心だって勝手に動きまわり、言うことを聞きません。過ぎたことにクヨクヨし、まだ見ぬ未来に怯えてます。そもそも次の瞬間に自分が何を考えるのか決められません。いわば言うことを聞かない子供です。

 

要するに身体も心もコントロールできません。つまり ”自分” はコントロールされている存在で、しかもそれに気づいていません。

なのに人間は、”自分” という確固たる存在があると思っています。強く思いこんでいます。

・・ちょっと怖くなってきませんか?

 

もう一度確認。誰が神に祈るの?

人間は神から生まれたという前提が(一応)あるのでしょうけど、事実は誰にもわかりません。まぁ過去のことが不明なのはまだしも、今この瞬間ですら、どうやって存在しているのか不明ときています。自分の思考や行動すらコントロールできないくせに、それを自分だと勘違いしてるのが人間です。

 

「私は誰?どこから来たの?・・私は知らないけど、きっと神様なら知ってるはずだ!」

だからニーバー氏は祈りました。

 

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

 

変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ?

・・残念ながら無理っしょ。自分が誰かすらわからないんだから。

 

 

やっぱ私は何一つわからない。判断できる能力を持ってない。

しかも、わかってないのは私だけじゃない。全員がそうだ。人間以外の生物も同じ。なのに世界は成り立っている。これぞ神業だ。

 

二ーバー氏はそんな気持で、この詩を書いたと思われます。冒頭の詩には続きがあります。

 

二ーバーの祈りの後半
一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。
ゆるく超訳すると、

一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。

何一つ確かなことは分からない。もう構造的にムリ。だったらそれを受け入れて、毎日を前向きに生きることにしよう。

 

これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

あーもう無理無理。完全にあきらめた。そのままの世界を受け入れます。

 

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。

そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

知りえないなら委ねるしかない。信じるしかない。もう神にお任せしよう。

 

って感じでしょうか。

 

信じる者は救われる、は思考放棄ではない

 

「信じる者は救われる」というのは思考放棄ではありません。思考や観察の構造的な限界にぶち当たった後で、人間に残された唯一の活路です。一見すると非科学的だけど、科学的に分析を深めても同じ結論にたどり着きます。

神を信じる必要もありません。自分自身が今こうして存在していることが、すでに奇跡です。誰にも理解できない現象なのですから。

 

 

「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」

を本気で求めていけば、賢さを求める私そのものが、実は存在していないことに気づくはずです。

 

それは悩みを解決するのではなく、悩みが発生する土台自体を打ち砕く、根本的な救いだったりして。

 

 

お押せるものを押す力を

 

アイキャッチ画像:reenablackによるPixabayより

 

スポンサーリンク  

コメント

タイトルとURLをコピーしました